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R・ブローディガン「西瓜糖の日々」を読んで

この本の最後の数十ページを公園で読んだ。風が強く吹いていたが、さらさらとも、はたはたとも吹いていなかった。ただ空は青く、暖かくて途中でダウンジャケットをベンチの脇に置いた。

いしいしんじの作品に雰囲気が似ているな、と思いながら読んだ。西瓜糖と鱒油って何だろう?ただとても過ごしやすい世界のようだった。その中で語り手の両親が虎に食べられたり、恋人とセックスしたり、元カノが首を吊って自殺したりするのだ。これはファンタジーではない、と思う。

「わたしが誰か、あなたは知りたいと思っていることだろう。わたしはきまった名前を持たない人間のひとりだ。あなたがわたしの名前をきめる。あなたの心に浮かぶこと、それがわたしの名前なのだ。

たとえば、ずっと昔に怒ったことについて考えていたりする。ーー誰かがあなたに質問をしたのだけれど、あなたはなんと答えてよいかわからなかった。

それがわたしの名前だ。

そう、もしかしたら、そのときはひどい雨降りだったかもしれない。

それがわたしの名前だ。

あるいは、誰かがあなたになにかをしろといった。あなたはいわれたようにした。ところが、あなたのしたことは駄目だったといわれたーー「ごめんな」--そして、あなたはやりなおした。

それがわたしの名前だ。

もしかしたら、子供のときにした遊びのこととか、あるいは歳をとってから窓辺の椅子に腰かけていたら、ふと心に浮かんだことであるとか。

それがわたしの名前だ。

それとも、あなたはどこかまで歩いて行ったのだ。花がいちめんに咲いていた。

それがわたしの名前だ。

あるいは、あなたはじっと覗きこむようにして、川を見つめていたのかもしれない。あなたを愛していた誰かが、すぐそばにいた。あなたに触れようとした。触れられるまえに、あなたにはもうその感じがわかった。そして、それから、あなたに触れた。

それがわたしの名前だ。

それとも、こういうことだったろうか。ずうっと遠くで、誰かがあなたを呼んでいた。その人たちの声はなんだか木霊みたいに聞こえた。

それがわたしの名前だ。

寝床に入って、横になっていたのかな、もうちょっとで眠ってしまうところだったのだが、あなたはなにかのことで笑った。ひとり笑い。一日を終えるには、これはいい。

それがわたしの名前だ。

それとも、なにかうまい物を食べていたんだが、なにを食べているのか度忘れしてしまった。でも、うまいな、と思いながら食べ続けたとか。

それがわたしの名前。

ひょっとしたら、もう真夜中で、ストーヴの火が鐘の音のように鳴っていたとか。

それがわたしの名前。

それとも。かの女が例のことに触れたので、あなたは気持ちが欝(ふさ)いでしまった。誰か別の人に話してくれればよかったのに。かの女の悩みごとをもっとよく理解できる誰かに話してくれればよかったのに。

それがわたしの名前だ。

鱒は瀞で泳いでいた。ところが、その川ときたら巾が八インチしかない。月がアイデスを照らし、西瓜畑は異様なほどに暗い輝きを放つ。月は、まるで植物の一本一本から昇ってくるようだった。

それがわたしの名前だ。」

語り手、主人公の名前がないなんて!これは1964年5月13日に書き始められ、1964年7月19日に書き終えられた、と最後に書いている。斬新なアイディア、その閃きを数十年経ってやっと知った。これは、素晴らしい出会いだと思った。藤本和子の訳者あとがきには、アイデスとはiDEATH、自己を死なせるような思想、とある。作者ブローディガンは1984年に「みずからの手で招いた弾丸による負傷がもとで死んだ」。この作品も、甘い世界にみえるのに、死が川底に横たわっている。巨大な長老鱒が見守るなかで。

いやいや、そんなことを書きたいのではなかった。

読後まず思ったのは、いや、ずっと思っていたのかもしれない。

「なぜ人は本を書くのか?」--そう、この本も「--とわたしは書いた。」で終わる。作品中、「わたし」はほんのちょっとだけ書くか、もしくは書けなくて散歩に出る。突き動かされる何かがあったのか、それとも、誰かにこの話を知ってもらいたかったのか、それこそ自己顕示欲なのか? もしくはそのすべてなのか。わからない。ただひとつわかったのはーーいや、決してわからないだろう。けれど、ほんのわずかづつでも、一気に記したとしても、最後は必ず来る。終わりは必ずやってくる。それぞれの人のペースで、その歩みを遂げた、それが本を書くことなのだろう。幸福そうにみえて、とてもとても、残酷なこと。なぜならそれを知ってしまっている、もしくは知っているのに、知らないふりをしてしまっているからだ。この本に登場する人たちも、知らないように見えて、実はふりをしているだけではないか、と今は思う。なぜなら、死に対する受容に至るプロセスのいくつかの必要なステップを飛び越えているからだ。そう考えると、葬式でワルツを踊るのも、いや、たいていはワルツで、沈黙の世界からじっと抜けるのを待っている人々は恐ろしい姿に見えるかもしれない

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