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タイピング日記049 / 隠し女小春 / 辻原登

隠し女小春 第3章 247頁〜253頁 辻原登


彼は、目覚ましが鳴る前にカウチを離れ、顔を洗い、漱(うが)いと歯磨きをして、ベッドルームに行き、小春に呼び掛けた。

「出かけようか」

彼女をジャージーの上下に着替えさせ、スニーカーを履かせる。施錠する際、彼女が隠し持っているはずの合鍵の行方が脳裏を掠めたが、忘れることにした。この時間帯に、廊下やエレベーターで住人と出会うことはない。車の助手席に座らせ、シートベルトを締めてやる。彼女は終始無言で、抵抗しなかった。

西神田から首都高速池袋線、都心環状線、高速3号渋谷線のルートだが、東名高速に入るまでに、追突事故や道路工事、点検作業に出会い、極端に車の少ない時間帯にもかかわらず、予定より二十分遅れて多摩川を渡った。しかし、彼は、100キロ近い高速で飛ばす大型トラックに挟まれながら、常に80キロの制限速度を守って走行する。事故や違反は何としても避けなければならない。

相模川を渡る。強い風が吹いて、車が煽られて左右に揺れる。大山、丹沢の山影の上方に数個の星が煌めいている。秦野中井ICを通過する頃、闇が解け始めた。小春は瞬き一つせず、じっと前方を見つめている。

聡の車は大井松田ICで東名高速を降り、御殿場に抜けて行く246号線に入った。やがて246号はJR御殿場線の線路と出会い、そのまま西に向かって並走する。松田、山北の町を抜けると、道は山峡(やまかい)の登り勾配になり、人家は、後方の白々とした明るみの中に遠ざかった。

聡は車を路肩に寄せて停め、都夫良野への入口を地図で確認して、再びスタートする。

深い谷の底を酒匂川(さかわがわ)が蛇行しながら流れている。「安戸隧道(やすどずいどう)」の信号で右折して246号と別れ、ヘアピンカーブで細い急勾配の道に乗り入れた途端、昇り始めた朝日に照らされて、谷間の木々や岩壁が紅(くれない)に染まった。小春は初めて大きく瞬きした。

道は、大野山と都夫良野へと二手に分かれる。聡は都夫良野方向へと左ハンドルを切って、数軒の民家の間を抜け、切通しから東名高速の高架橋の下を潜った。曲がりくねった急坂(きゅうはん)の崖道が続くうちに、いきなり眺望が開けて、眼下に東名高速が現れた。先程、その下を潜ったはずだが、山を巻いて登って行くうち、その真上に出ていたのだ。都夫良野トンネルの黒い二つの口が見え、トラックやバスが速度を落として出入りしている。

聡は、地図で現在地を確認する。この先で道路は再び二手に分かれ、真っ直ぐいくと「山北つぶら公園」へ、左に取ると都夫良野林道となる。彼は林道へと乗り入れ、車の窓を開けると、思わず首を縮めてしまう山の冷気に襲われた。道路は舗装されているが、対向車が現れれば、バックして余裕のある路肩にぎりぎりまで寄せなければならないだろう。

九十九折(つづらおり)が続き、森が深くなる。樹林は、スギやヒノキの人工林からクスノキ、スダジイ、クヌギ、トネリコなどの自然林へと変わっていく。空は梢越しに僅かに覗くだけで、射し込む光が、黒々とした崖の岩肌を鈍く照らしている。

二十分程登ったところで、アーチ型鉄パイプの車止めに行く手を遮られた。「車両通行止 山北森林組合」とある。車止めの先には、下生えの茂った小径が見え隠れに伸びている。

聡は助手席から小春を降ろし、手に取って小径へと踏み出した。枝を渡る風、二人が落葉を踏む音、鳥の羽搏きなどが渾然一体となって、早朝、ハイキングを楽しんでいるかのようだ。彼は、木々の一本一本を値踏みしながら、森の奥へと進む。一本のクスノキの下で立ち止まる。だが、車止めから近過ぎると考え、さらに先を探る。上の斜面にもう一つの小径を見つけて分け入った。何度も眼下の風景を見て位置を確認しながら、右手で小春の手を引き、左手で藪漕(やぶこ)ぎしつつ登って行く。

小一時間程歩くと、小径が尽きた。遥か下の方から水音が聞こえる。標高は三百五十メートルくらいだろうか。聡は時計を見て、もういいだろ、と呟いた。

彼は、小径から見えない反対側の斜面へ回ろうとした。その時、下方の木立を縫って、白い霧が這い上がってくるのが見えた。谷底から川霧が立ち渡っているのだろう。彼は斜面をもう少し下って、木を決めようと思った。霧が足許まで来た。樹冠越しに見上げる空は真っ青に晴れている。ふと目を落とすと、藪の中から苔むした小さな石仏が覗いている。一つ見つかると、その先にまた一つ。聡は知らずに、江戸時代、人が通行した「奥山家(おくやまが)古道」に足を踏み入れていたのだ。

……奇妙だな、まるで道行(みちゆき)の舞台をあるいているみたいじゃないか。

「心中なんかしないぞ。してたまるか」

彼はわざと声に出して、誰にともなく言ってみる。小春は逆らわず無言で随(つ)いてきた。

巨きなスダジイの木が出現した。急斜面に真っ直ぐ立っていて、太くて強そうな枝を四方に張り出している。彼が木に向かって歩き始めた時、小春が何かを言いかけた。しかし、聡には聞き取れず、怪訝な面持ちで振り向くと、

「捨てないで、……私を」

と彼女は言った。

「捨てるんじゃない、泣く泣く手放すんだ」

彼は素っ気ない口調で、独りよがりな言い訳を口にした。

木の下に着くと、ショルダーバッグからロープを取り出し、一方の端を二度結びして

瘤状のものを作ると、輪っかを小春の首に嵌め、喉元に食い込むまで締め上げる。小春は、悄然として目を伏せていた。

彼は、四メートルの高さはある枝に向かってロープを投げ上げ、枝を巻いて落下して来た瘤を摑むと、力を込めてゆっくりと引っ張り始めた。小春の足が次第に地面を離れていく。

彼は、小春を足先から地面まで一・五メートルの高さに吊り上げると、ロープを木の幹に何重にも巻いて括り付けた。

彼はこれら一連の作業を終えると、急いでスダジイを離れた。まるで殺人犯になったような気分で、斜面を転がるように復路を辿った。……さすがにハイカーはここまで入って来ないだろうから、何年か先まで発見されることはないと彼は考えた。たとえ見つかっても、森林組合や警察は、廃棄するためゴミ処理場に送るに決まっている。小春はいずれオイルが出尽くして、硬化したシリコンの塊と化す……はずだ。

彼は、再び彼女が逃げ戻って来る可能性については、いっさい考えないようとしない。

彼は道に迷った。車止めのある林道が見つからない。杉葉が厚く散り敷いた斜面は氷のように滑り、何度も尻餅をついた。立ちあがろうとして視線を上げると、その正面、V字に切れ込んだ谷の彼方に、雪化粧した富士山が見えた。朝日に照らされている。聡は思わず息を呑み、その姿勢のまま富士の神々しい威容を凝視し続けた。

小春は、聡の姿が見えなくなると、両手でロープを手繰って、綱のぼりの要領で身体を持ち上げ、右手を枝に掛けると、左手で輪っかを外して地面に飛び降りた。呆けたようになって富士を見ている聡を尻目に、彼女は斜面を駆け下り、迷うことなく車止めまで戻ると、車の下に仰向きに滑り込んだ。そして、左右のステンレスフレームを両腕を広げて握り、中央部を前後に通っている二本のメインフレームに両足を絡み付かせた。

ようやく車に辿り着いた聡は、頭脳も肉体も消耗し尽くした状態でランドクルーザーをスタートさせ、246号に出た。大井松田ICへ向かう車のバックミラーには、ずっと富士の遠景が小さく映っていた。

聡は東名高速を東京ICで降り、玉川通りに出たところで車を停め、恭子に電話を入れた。

「今からそちらに向かうんだけど、目印は清泉女子大だよね」

「車ですか? ……このあたりは駐車場がなくて。少し離れてますが五反田駅隣の東急ストアの駐車場に停めて、清泉女子大の前の坂道を登って来てください。電話をくれれば、迎えに行きます」

彼が五反田駅前から表通りを左に折れて、長い緩やかな坂道を登って行くと、上方から恭子が降りてきて、二人はちょうど清泉女子大の正門前で落ち合った。彼女はボタンダウンのシャツの上にオレンジ色のセーター、ジーンズ姿でローファーを履いている。

二人が坂を登り切って、小さな寺の境内に入って行くのを、背後から一定の距離を置いて小春が見つめていた。

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