One Last Kiss

宇多田ヒカル『One Last Kiss』のMVが公開された。
これを見て、恋に落ちない人類は存在するのだろうか。

私は宇多田ヒカルに恋をしている。現実の恋人とか、昔好きだった人とか、年齢差とか、どうでもいい。そんな陳腐で薄っぺらいものに関係なく、恋をしている。というか、宇多田ヒカルを前にしたら、何もかもが浅はかで意味のないものになる。

彼女には常に驚かされている。彼女のことは、何一つとしてわからない。胴体はおろか、尻尾さえどこにあるのかわからないし、髪の毛一本見つけたことはない。触れようと思っても逃げて飛び去ってしまう、美しい蝶のようであり、目が合って微笑んだかと思えば、地獄の果てへと追い詰めるような深く鋭い眼差しを向けてくる。美しい夢を見せてくれているのかもしれないし、現実に沈む深い闇の一片なのかもしれない。彼女の掬い上げる世界は瞬きするのも惜しいほど儚く煌めき、目を背けてしまいたいと思うほど苦く恐ろしい。耐え切れないほど柔らかく快感を覚える世界であり、張り裂けそうなほどの痛みに溺れる世界である。

彼女は、一体どこにいるのだろう。

彼女は、私の心の中にある大切なものを突いてくるようで、肝心な部分に触れないで素通りするようで、私が見て欲しいものを微笑みながら包み込むようで、何も言わずに目を合わせないようである。

彼女は、一体誰なのだろう。

新しい曲が出る度に、彼女の感受性と、計り知れない奥行きに完膚なきまでに打ちのめされる。言葉を失う、なんてかわいいもんじゃない。彼女は、今まで“大衆”が捉えていた「宇多田ヒカル」を毎回完璧に覆してくる。その上、完璧に上回ってくる。彼女が自分自身を粉々にし、新しい彼女自身を構築する。そこに妥協は一切ない。一点の曇りも、一欠片の迷いもない。自分を大きく見せようとも、謙遜しようともしない。ただ、彼女は音楽と詩と全身全霊で向き合い、曲を生み出す。彼女がつくる曲の世界には、本当の意味で彼女以外のものは何もない。世の中に数え切れないほどある煩悩は、彼女には本当の意味で無縁である。災害、環境、戦争、政治、飢餓、病気、金、人間関係… 数え切れないほどある、世の中に山積しているあらゆる問題は、彼女には真に関係ない。彼女の世界には、彼女が生きている、ということ以外は意味をなすものとして何一つ存在しない。それが、彼女の儚さを、美しさを、迷いのなさを、悲しみを、孤独を、運命を、誰にも捉えられないものにしている。

彼女の孤独は、歌を通して全く自分自身の孤独とも無縁な人を、その心を孤独へと大きく揺さぶってしまうほどあまりに強く、想像ができないほど脆く壊れやすい。彼女は歌に載せて、誰にも見えない自身の孤独の一欠片を共有することはできても、一欠片が無限に重なり合った捉えられないほど大きな孤独を誰かと共有することはできない。彼女はそれをよく知っている。そして、いつも張り裂けそうな心を背負って、ただ微笑む。大衆による慰めは、彼女にとって本当は何の意味も持たない、ただ、大衆との接点の一つとして、彼女の孤独の一欠片を磨きに磨いて見せる、という行為があるだけのことだ。彼女にとっては、大きな数字も、大きな富も、それだけのことなのだ。たくさんの褒め言葉も、本当の意味では彼女を救うことができない。誰かからのいい言葉や評価さえ、”一般的な愛“が詰め込まれた、紛い物だがこの世では大変稀少だとされているギフトを受け取るようなものなのだ。彼女はそのこともよく知っている。

彼女は、自分とは異なる世界に生きる人を、全く軽蔑することがない。むしろ、羨んでさえいる。自分の居場所のない世界に、すんなりと存在することのできる圧倒的多数を、眩しく見つめている。共感できない、分かり合えない人々のことを、ただ自分一人だけの孤独に耐えながら、黙って見つめている。こんな苦しみはもう慣れっこだ、と思いながら、ずっと傷付き続けている。この世界には諦めと苦しさしか感じないけれど、忘れたいことも、忘れたくないことも、全て背負って歩き続けるしか道は残されていないから、とにかく前へと歩みを進める。時々、自分にも居場所がある、と錯覚する日もある。そんな安堵の瞬間はすぐに過ぎ去り、元の重苦しい孤独へと戻る。

世界が叫ぶ、“天才”になんて、なりたくなかったんじゃないだろうか。まるで映画のような壮大さ、緻密さ、繊細さを持った彼女の楽曲を、世界は“天才”のなす業だと叫ぶ。彼女が本当にしたいことは、世界を驚かせることじゃない。不条理で悲しいことの多すぎるこの世界で生きていくために、彼女自身を慰めること。でも、それだけではこの世界で彼女自身の居場所を少しの間も作ることができない。彼女は、意図的に違う世界に生きる人にとっても理解できるようなメロディーを紡ぐ。そうして、彼女の世界と、この歪曲した、大多数が住む世界との一抹の接点を創る。それが、彼女がプロのシンガーソングライターとして行っていることではないだろうか。


One Last Kiss のMVを観るたび、私は胸を締め付けられる。どうか、そんな目で見つめないでほしい。どうしてそこまで美しく、儚く、澱みなく、澄み切った、残酷な目で見つめるのでしょう。私の心の奥にそっと鍵をかけていた柔らかい部分が解き放たれる。もっと見ていたい、あまりにも魅力的だから。もう見たくない、涙が溢れて呼吸ができないほど苦しいから。


これらも全て、彼女が見せてくれている夢の一部なのだろう。
そうだとしても、宇多田ヒカルさん、私の歯車が動き出したのは、あなたと出会ったときなのです。


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