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自分ってなに

最近自分が何かわからない。自分が何をしたいのか、本当は何をしたかったのか、何が好きなのかわからなくなってしまった。自暴自棄になって今にも泣き喚きそうな気持ちである。心が壊れそうだ。だから、このどうしようもない私の心をニーチェの言葉とともにかんがえてみようと思う。一回俯瞰して今の私を見つめ直したい。


私には好きな人がいる。今、恋をしている。だからその人がしていたこと、その人の好きなこと、その人が見ていた景色を少しでも見てみたいとか、その人に好かれたいと思ってしている行動がある。

また、今私が恋をしている人だけが好きな人ではなくて、他にもたくさんの好きな友達がいる。そしての人たちの影響も色濃く受けている。その友達のことを知りたいだとか、もっと会話に入りたいとか思って新しい趣味に手を伸ばしてみたりしている。楽しいといえば楽しい。だって、そうしたら私と、私の好きな人たちとの境界線が少しでも埋まるような気がしたから。

そう。私は幸せなことに、気が合う人たちがたくさんいるコミュニティに属しているのだ。そこで恋も、友情も、たくさん育まれた。人生においてこんなに好きな人たちと一緒に活動できるなんてそうそうないであろう。幸せだなあと思いここ一年間過ごしてきた。

最初はそれでも良かった。しかし、気がついてしまった。今私がしていることは誰かの真似ばかりだ。真似でしかない。真似から新しい趣味?新しい人生のバイブルを見つけたような気でいる。バイブルほどになってもいないのに。そんな顔をしているだけだ。だから生まれたての私はなにが好きだったのか、何をしたかったのか、わからない。わからなくなってしまった。これはとても贅沢な悩みなのだろう。でも贅沢にしても、今ここにいる私は心の底から飢えていてとても贅沢なんていう言葉とは程遠い精神状態にある。ただ、本当の自分がしたかったことにもっとフォーカスを当ててみたいという気持ちが強まっている。

そのため、問いを立てながら考えていこうと思う

  1. 裸の私とは

  2. 他人の真似をすることはなぜ私を駄目にしたのだろうか


裸の私とは

ニーチェによれば、自分を見つけるためには


自分の「なぜ」を知れば道が見える。問題はまず、自分の「なぜ」がちっともわかっていないということにある。自分がなぜそれをやりたいのか、なぜそれを望むのか、なぜそうなりたいのか、なぜその道を行きたいのか、ということについて深く考えてないし、しっかり掴んでいないからだ。その自分のなぜさえはっきり掴めていれば、あとはもう簡単だ。どのようにやるのかなんてすぐにわかってくる。わざわざ他人の真似をして時間を潰すこともない。もう自分のめで自分の道がはっきりと見えているのだから、あとは歩いていけばいいだけになる。

偶像の黄昏


と言っている。そのため、これに沿って考えて書き出してみた結果、なんとか自分がこの学科を選んだ理由、この学科で何をしたかったかを思い出すことができた。大きな夢も再確認できた。そういえばこれをやりたかったなあと原点に戻らせてくれる言葉であった。しかし、これでは思い出しただけだ。思い出しただけであり、ここからどうやって動いていけばいいのかわからない。他人の真似をして興味の幅を増やすことは、なぜ私を空っぽにさせたのか。他人の真似をすることはなぜ私を駄目にしたのだろうか。

他人の真似をすることはなぜ私を駄目にしたのだろうか

また自分では辿り着けない問いへ直面したので、ニーチェの本を読み漁る。するとニーチェは


この人生を簡単に、そして安楽に過ごしていきたいのならば、常に群れてやまない人々の中に混じるがいい。そして、いつも群衆と一緒につるんでついには自分というものを忘れ去って生きていくがいい。

力への意志


と言った。また、


類は友を呼ぶというけれど、同じ考えのものばかりが集まり、互いを認め合って満足していると、そこはぬくぬくとした閉鎖空間となってしまい、新しい考えや発想が出てくることはまずなくなる。また。組織の年長者が自分の考えと同じ意見を持つ若者ばかりを引き立てるようになると、その若者も組織も、各槌に駄目になってしまう。反対意見や新しい異質な発想を恐れ、自分たちの安定のみに向かうような姿勢は、かえって組織や人を根元から腐らせてしまい、急速に退廃と破滅を促すことになる

曙光


と言っている。

ここで私はようやく、ただ群れていただけだと気がついた。よく考えれば、私が居心地いいと感じているこの団体は昔からのやり方でやり続けて、安心と安定だけを選択し続けている団体である。最初こそ、ここを変えたい、改善するべきだなどとほざいていた。しかし、安定をとるこの団体では無理であることに気がついた後からは、団体を変えようとする姿勢を失っていた。意見してもどうせ変わらないし、昔のちょっと変な組織体制のままいけばいいと思い始め、それを言わずにただ群れていたのだ。また団体としてだけではなく自分自身もまた他の人たちと群れ始めていた。無意識のうちに。この環境に毒されていた。


私は愛なんていう柔らかな言葉の後ろに隠れてただ楽をしているだけなのだろう。好きな人たちへの興味とかこつけて、結局は叶えられそうにもない自分の大きな夢から逃げているだけなのだ。私は私から逃げている。夢を叶える責任を取れていないから。夢は決まっている。いつだって夢は逃げずにそこにある。でもその目の前でずっと踏み出せずにうろちょろしているのは他の誰でもない私なのだ。だから、もっと責任と自信を持って行動を起こしていかなければいけない。

いろんなもっともらしい理由をつけてどんどん楽な方に流されて夢をおざなりにして。どんどん悲惨な結末へと向けさせているのは私自身だ。だから、少なくともこの問いから得られたのは、私は群れることをやめるべきだという結論だ。
今日まで私は群れているつもりなど毛頭なくて、ただ好きな友達と笑っているだけのつもりだった。しかしこれはどうやら群れだったらしい。なのでここから先の私はこの気づきをどう活かしていくかがポイントになる。気づいてもまた忘れては意味がない。行動に起こさなければいけない。楽しみだなあ。これから私はどう成長していけるんだろうか。哲学とともにあれば私はたとえ道を外れてもいつでも正しい道へと戻ることができそうである。たくさんたくさん考えて、いっぱい勉強して、私は人間を学んでいきたい。私自身についても、周りの人についても、それなりの答えを見つけていくために。

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