レモンの花が咲いたら 16
16 玄
手術が終わってから3日が経つ。未だに美月さんの意識は戻らない。
季節はもう春も終わり頃で、梅雨の足音が聞こえてきていた。
「美月さん」
そう呼び掛けても、彼女は眠ったままだ。いつもなら、「どうしたの?」とくりくりと丸い目をこちらに向けてくるのに。雪のように白い瞳をこちらに向けてくれるのに。今ではその目ですらも包帯にふさがれたままだ。
最近雨が続いていたが、今日はようやく晴れた。空は青く澄んで、気温も高くなっていた。換気をしようと窓を開けると、さわやかな風が入ってきた。しかし、その風を浴びても彼女は目覚めない。
「………早く起きてよ」
ぼそっとつぶやいた俺の言葉が、無機質な病室にむなしく響いた。
*
その日の夕方の事だ。美月さんの手がかすかに動いた。本を読んでいた俺だったがすぐにそれに気づき、
「み、美月さん?!」
と、手を握ってみると、弱い力ではあるが握り返してきた。
「美月さん!」
俺は必死に呼びかけた。もうここで起きなかったら、本当美月さんが目覚めないまま逝ってしまう気がした。
「美月さん、美月さん!!」
すると、酸素マスクに覆われた美月さんの口が小さく開いた。
「玄……さん……?」
「美月さん!やっと起きたんだ!」
もう感動と驚きで涙が止まらなかった。奇跡だ。奇跡が起こったんだ。
「目に、何か、違和感があるの・・・・・」
「包帯が、包帯がまかれてるから。今看護師さん呼ぶね」
と、俺はナースコールを押した。直ぐに看護師が来て対応にあたり、そして美月さんの目を覆っていた包帯が外された。
「美月さん、ゆっくり目を開けてみて」
そして、彼女はゆっくりと目を開けた。瞳は白から美しいこげ茶色になっていた。
「見える…見えるよ!」
少しだけ声が明るくなった。もうこれが彼女に出せる精いっぱいの歓声なんだろう。
「美月さん」
俺が彼女を呼ぶと、ゆっくりと俺のほうを向いた。
彼女は俺の顔を見たとき、何と思うんだろう。思えば、俺の顔はずっと変だと言われてきた。ぎょろっとした目、大きな口、目の下のほくろ、いびつにつり上がった眉毛。怖いとさえも言われてきた、俺の顔。恥ずかしくて、ずっと前髪て顔を隠してきた。
「あなたが……玄さんなの?」
「う、うん…。そうだよ」
「もっとよく顔が見たいな」
俺は前髪を上げて、美月さんに顔を見せた。
すると、美月さんは優しく微笑んだ。
「ああ、素敵…。玄さんは、お顔もかっこいいんだね」
そんな風に言われたことが無くて、胸がギュッと締め付けられた。顔を見てかっこいいだなんて、一度も言われたことが無かった。
「ねえ、玄さん。私ね、玄さんに謝らなきゃいけないことがあるの」
「え、何?」
「私ね、実はこっそり、玄さんの曲を聴いたことがあるの」
「え?」
あまりにも衝撃的な言葉に俺は言葉を失った。
「いつ?」
「夜、玄さんがコンビニに行くって言ってた時。私御留守番してた時だよ。その時、たまたま触ったところにボタンがあって、いきなり音楽が流れてきたの。知らない曲だったけれど、でも、初めての感覚だった。音楽で感動したなんて、初めてだったの。だから、こんなきれいな歌を作る人はきっと、かっこいいんだろうなって思ってた」
思いもよらない形で、俺は美月さんに自分の曲を聞かせていたのか。いったい何の曲を聴いたのかも気になるが…。
「本当は、もっとちゃんと君に俺の曲を聴かせたかった。そしていつか、自分が歌った歌を君に聴かせたかった」
俺の音声データはパソコンにはない。すべてVOCALOIDが歌っている。どうせなら俺自身の声での歌を聴かせたかった。
しかし美月さんは優しかった。
「それでも……いいの。玄さんが作った曲なら、誰の声でも幸せだよ」
美月さんは、窓の外を見た。
「空が見える。あれが、青い空なの?」
その目線の先には、夕焼けでオレンジ色に染まった空が広がっていた。俺は、
「いや、あれは夕焼け空だよ。オレンジ色の空」
「空は、ずっと青じゃないの?」
「うん。いろんな表情をするんだよ」
「そうなんだ。すごいな……」
彼女は満足げに笑った。
「私が思っていた以上に、この世界は、美しくて、たくさんの不思議があるんだね。私、本当に幸せ……」
涙さえ浮かべながら、美月さんはゆっくりと目を閉じた。
まつげが日差しで星のようにきらきらと輝いていた。
俺は思うよりも早く言った。
「美月さん。愛してるよ……」
その日の夜。21時40分。
月明かりがきれいな、雲一つない夜空が広がっているそのとき。美月さんは空へと旅立った。
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