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レモンの花が咲いたら 16

16 玄


 手術が終わってから3日が経つ。未だに美月さんの意識は戻らない。

 季節はもう春も終わり頃で、梅雨の足音が聞こえてきていた。

「美月さん」

 そう呼び掛けても、彼女は眠ったままだ。いつもなら、「どうしたの?」とくりくりと丸い目をこちらに向けてくるのに。雪のように白い瞳をこちらに向けてくれるのに。今ではその目ですらも包帯にふさがれたままだ。

 最近雨が続いていたが、今日はようやく晴れた。空は青く澄んで、気温も高くなっていた。換気をしようと窓を開けると、さわやかな風が入ってきた。しかし、その風を浴びても彼女は目覚めない。

「………早く起きてよ」

 ぼそっとつぶやいた俺の言葉が、無機質な病室にむなしく響いた。



 その日の夕方の事だ。美月さんの手がかすかに動いた。本を読んでいた俺だったがすぐにそれに気づき、

「み、美月さん?!」

 と、手を握ってみると、弱い力ではあるが握り返してきた。

「美月さん!」

 俺は必死に呼びかけた。もうここで起きなかったら、本当美月さんが目覚めないまま逝ってしまう気がした。

「美月さん、美月さん!!」

 すると、酸素マスクに覆われた美月さんの口が小さく開いた。

「玄……さん……?」

「美月さん!やっと起きたんだ!」

 もう感動と驚きで涙が止まらなかった。奇跡だ。奇跡が起こったんだ。

「目に、何か、違和感があるの・・・・・」

「包帯が、包帯がまかれてるから。今看護師さん呼ぶね」

 と、俺はナースコールを押した。直ぐに看護師が来て対応にあたり、そして美月さんの目を覆っていた包帯が外された。

「美月さん、ゆっくり目を開けてみて」

 そして、彼女はゆっくりと目を開けた。瞳は白から美しいこげ茶色になっていた。

「見える…見えるよ!」

 少しだけ声が明るくなった。もうこれが彼女に出せる精いっぱいの歓声なんだろう。

「美月さん」

 俺が彼女を呼ぶと、ゆっくりと俺のほうを向いた。

 彼女は俺の顔を見たとき、何と思うんだろう。思えば、俺の顔はずっと変だと言われてきた。ぎょろっとした目、大きな口、目の下のほくろ、いびつにつり上がった眉毛。怖いとさえも言われてきた、俺の顔。恥ずかしくて、ずっと前髪て顔を隠してきた。

「あなたが……玄さんなの?」

「う、うん…。そうだよ」

「もっとよく顔が見たいな」

 俺は前髪を上げて、美月さんに顔を見せた。

 すると、美月さんは優しく微笑んだ。

「ああ、素敵…。玄さんは、お顔もかっこいいんだね」

 そんな風に言われたことが無くて、胸がギュッと締め付けられた。顔を見てかっこいいだなんて、一度も言われたことが無かった。

「ねえ、玄さん。私ね、玄さんに謝らなきゃいけないことがあるの」

「え、何?」

「私ね、実はこっそり、玄さんの曲を聴いたことがあるの」

「え?」

 あまりにも衝撃的な言葉に俺は言葉を失った。

「いつ?」

「夜、玄さんがコンビニに行くって言ってた時。私御留守番してた時だよ。その時、たまたま触ったところにボタンがあって、いきなり音楽が流れてきたの。知らない曲だったけれど、でも、初めての感覚だった。音楽で感動したなんて、初めてだったの。だから、こんなきれいな歌を作る人はきっと、かっこいいんだろうなって思ってた」

 思いもよらない形で、俺は美月さんに自分の曲を聞かせていたのか。いったい何の曲を聴いたのかも気になるが…。

「本当は、もっとちゃんと君に俺の曲を聴かせたかった。そしていつか、自分が歌った歌を君に聴かせたかった」

 俺の音声データはパソコンにはない。すべてVOCALOIDが歌っている。どうせなら俺自身の声での歌を聴かせたかった。

 しかし美月さんは優しかった。

「それでも……いいの。玄さんが作った曲なら、誰の声でも幸せだよ」

 美月さんは、窓の外を見た。

「空が見える。あれが、青い空なの?」

 その目線の先には、夕焼けでオレンジ色に染まった空が広がっていた。俺は、

「いや、あれは夕焼け空だよ。オレンジ色の空」

「空は、ずっと青じゃないの?」

「うん。いろんな表情をするんだよ」

「そうなんだ。すごいな……」

 彼女は満足げに笑った。

「私が思っていた以上に、この世界は、美しくて、たくさんの不思議があるんだね。私、本当に幸せ……」

 涙さえ浮かべながら、美月さんはゆっくりと目を閉じた。

 まつげが日差しで星のようにきらきらと輝いていた。

 俺は思うよりも早く言った。

「美月さん。愛してるよ……」


 その日の夜。21時40分。

 月明かりがきれいな、雲一つない夜空が広がっているそのとき。美月さんは空へと旅立った。

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