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レモンの花が咲いたら 17
17 玄
長い長い夢を見ていたのだろうか。あの日まで見ていた景色に、現実味がない。夢だと思えばすべて合点がいくようにも見えた。
それでも、あの日から、あの瞬間から思うように息が出来ない。
ずっと心の中に潜み、時に大きく俺の前に現れては、大きなスクリーンのようになってそこに思い出を映し出す。そのたびに涙が止まらなくて、体がしびれる。
そして思う。
俺は、あの子に何もしてあげられなかったと。
*
美月さんが亡くなって2週間が経つ。金も無いので簡単な葬儀と火葬だけやってもらった。今は俺の部屋にぽつりと小さな骨壺があるだけ。だが、俺の部屋に残された彼女の身辺整理がいまだに手つかずでいる。
「邪魔するぞ」
突然部屋に洋平さんが入ってきた。驚いた俺は、
「よ、洋平さん。来たんですか。来るなら一言……」
「さっき行くってメールしたじゃないか」
え?と思ってケータイを見ると、確かに洋平さんからメールが1件来ていた。何も気づかなかった。
「あ、ああ……」
「やっぱりお前、相当来てるよな。まあ、無理もないか…」
洋平さんは、美月さんの葬式にきてくれた。一度しか会いに来たことが無いのにもかかわらず、金が無さ過ぎて火葬も出来ないかもしれないといった俺に「貸しだからな」とだけ言って費用をすべて出してくれた。訃音を聞きつけてから最後の骨を拾う作業まで、すべて洋平さんはいてくれた。
美月さんには親戚が居なかったらしく、そしてまた両親にも「自分たちとは関係ない」と身勝手なことを言われたそうだ。のちに遺骨の受け取りも拒否された。それも踏まえて夫である俺が喪主を務めた。籍を入れた訳じゃないけど、これが美月さんにできる最初で最後の事だと思って仕事をすることにした。だが、心にぽっかりと大きな穴が開いた俺には、もう仕事としてでも水原先生以外の先生や看護師、火葬場のスタッフとうまく話すことが出来なかった。
そのシーンもすべて見ていた洋平さんはそれ以上何も言わなかった。
俺は、つぶやくように言った。
「俺、あの日までの事が全部、夢だったんじゃないかって思うんです」
「夢?」
「美月さんとは、1ヶ月ちょっとしか一緒にいられませんでした。彼女のやりたいことも全て叶えることが出来なかった。それでも、一緒にいたその時間はすごく幸せで。今までにないくらいずっと、幸せだったんです。
でも、彼女は居なくなってしまった。白昼夢みたいでした、本当に。美しくて、清らかな彼女と過ごしたその時間は、本当に非現実的だった」
本当に、夢ならどれほどよかったんだろう。そうだったらまだ自分の心に踏ん切りがつく。
しかし、そう思うたびにベランダにあるレモンが邪魔をする。洋平さんからもらってから、美月さんはずっと大切にレモンを育ててきた。あのレモンには、甘くて、そしてほろ苦い思い出がたくさん詰まっている。
一度、そのレモンの木をもう捨ててしまおうかと思った。でも、できなかった。本当に捨ててしまったら、本当に美月さんが俺の中から消えて行ってしまう気がした。
洋平さんはしばらく黙っていたが、やがて口を開き、
「俺さ、土地、買ったんだよね」
「と、土地?」
藪から棒に何なんだ。
「まだ、美月さんの墓が無いだろう」
「あ、はい。身寄りの家もないみたいですし…」
「じゃあさ、あの子のお墓を、そこに作ってあげようよ。レモンの木もそこに植えよう。樹木葬ってやつ」
「え?植えるんですか?」
「そうだよ。もう鉢も狭くなるだろうしな。じゃあ早速だけど行くか」
「もうですか」
戸惑う俺に、洋平さんはこう言った。
「善は急げっていうだろうが」
全く。この人のたまの行動力には驚かされる。そこがいいんだけど。
*
洋平さんの車に乗せられて、俺たちは広い草地に来た。
「ここですか?」
「ああ」
そういって、洋平さんはトランクからスコップを取り出した。察した俺は苗木をそっとそばに置いて一緒に穴を掘り、そしてそこにレモンの苗木を植えた。
一通りの作業を終えて息をつこうと顔を上げると、きれいな海が見えた。前に美月さんといった、あの海だ。初めて彼女が歩いた海。
「ここなら眺めもいいし、いいだろう」
海を眺める俺に、洋平さんが言った。
「踏み出すのに時間はかかると思う。でも、お前にできることは全部やったんだろう。それなら、それでいいじゃないか。幸せだって、言ってもらえたんだろう」
美月さんと、最後に話したあの瞬間がよみがえる。
〈私が思っていた以上に、この世界は美しくて、たくさんの不思議があるんだね〉
〈私、本当に幸せ〉
涙があふれる。あの最後の笑顔が忘れられない。
あんなにもそばにいたのに。あんなにもずっと、時間を重ねてきたのに。それすらも全部嘘みたいだ。
「美月さんは、本当に幸せだったんでしょうか…」
洋平さんは静かに、
「そんなの、本人にしかわからないさ。でも、あの子の死に顔からは、本当に自分は幸せだったって思いしか伝わらなかったぞ」
そういうと、俺の方をポンとたたいて、
「もう少しで、ちょうど四十九日あたりでレモンの花がそろそろ咲くと思う。その時に線香でもあげに行けばいい」
じゃあ帰るか、と洋平さんは車に乗りこんだ。
俺も助手席に乗ろうとしたとき、一度だけ振り返った。すると、気持ちよさそうにレモンの木が葉を揺らしていた。あの鈴の音のようなかわいらしい笑い声が、どこかから聞こえてくる気がした。
こんな素晴らしい人、もう二度と出会うことはないと思う。
さようなら。俺の愛しい人。
レモンの花が咲いたら、また来るね。
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