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台湾に来て半年。大学辞めようと思った話。


台湾に来て約半年が経った。私の大学は長期休みの間寮が閉まるので、私は冬休みの1ヶ月の間日本に帰国していた。

2月上旬。沖縄から台湾に帰る直前、大好きな祖母がこの世を去った。64歳を迎える誕生日の2日前だった。

私は母方の祖父母の初孫だったので、生まれた瞬間から蝶よ花よと可愛がられていた。中学生になるまで毎週末は祖父母の家に泊まりに行っていて、なんなら平日も学校が終わると自宅ではなく祖父母の家に帰っていた。本を読み聞かせしてもらって、祖母の腕の中で眠ることが小学生だった私にとって1週間で1番好きな時間だった。親が祖父母宅に迎えに来ると毎回「家に帰りたくない」と泣いていたものだ。

祖母は癌で亡くなった。癌が発覚したとき、「体調が悪い」と言った祖母を初めて病院に連れて行ったのは私だった。どんなに「葵のせいじゃない」と言われても、私がもっと早く病院に連れて行っていたら何か変わったかもしれないと思うと自分を責めてしまう気持ちが止まらかった。面会制限があってお見舞いにはいけなかったから、最後に祖母に会ったのは9月、東京に行く前日の夜だった。

半年ぶりに対面した祖母はただ眠っているようで、じっと見つめているとお腹がこちらの呼吸に合わせて動いているように見えた。お葬式までの3日間、祖母のそばを離れたくなくて寝食を隣で過ごした。起きて「おかえり」と言ってくれることを待っていた。

私が台湾に行った後も私と連絡を取れるように、入院中祖母は看護師にLINEの使い方と文字の打ち方を教えてもらったらしい。だから1週間に1回以上は電話がかかってきて、「いつ帰ってくるの!?」とか「デンワしてください!」とか、ポップな絵文字と共にメッセージをよく送ってくれた。

それでも、沖縄を出ないでずっと祖母の隣にいてあげれば良かったと思った。あぁ、留学なんてしなければ良かった。祖母は身長が170cmちかくあったが、最期の体重は35kgほどだったらしい。穏やかに眠る祖母の顔からはとても想像できなかったが、一人で苦しくて寂しかっただろう。ずっと私に会いたがっていたらしい。病室で私が帰ってくるのを楽しみに待っていた祖母の姿を想像すると、本当に胸が苦しくて申し訳なくて涙が止まらなくなる。1ヶ月以上経った今でも誰にもバレないように毎日泣いている。

台湾に帰る前日がお葬式だった。棺には祖母と一緒に植えた思い出の向日葵と、自分の写真と手紙を入れた。初めてレターセットを使いきるくらい誰かに手紙を書いた。その日は文字通り朝から夜まで泣いた。夕方にはコンタクトが白く変色して何も見えなくなった。後にも先にもあれ以上泣くことはもう出来ないと思う。祖父が棺の前で「寂しい、寂しい」と吐露しながら泣いているのを見ていると、台湾に帰りたくなくなった。もう大学やめようと思った。私が6歳の時、脳梗塞で倒れ右半身が不自由になった祖父を、祖母はずっと支えていた。祖父には祖母の分も長生きしてほしいから、ここに残って祖父と二人暮らしするのも悪くないと思った。
私はその場で帰りの飛行機の便をキャンセルするためにカスタマーセンターに問い合わせた。

しかし、祖父の部屋のカレンダーを見て「やっぱり私は台湾で頑張らないといけない」と思った。祖父が私が台湾に帰る日の日付に『葵、頑張って4年』と書き記していたからだ。

2月10日:私が台湾に帰る日

祖父は右半身が不自由なので、利き手とは逆の左手でしか文字が書けないし、文字を書くのに時間がかかる。それでもゆっくり丁寧に、私のことを想って書いてくれたこの文字を見ると、私が沖縄に残ることは誰も望まないことだと思った。

祖母も寂しいとは言わずに「頑張ってね」と言って送り出してくれたし、LINEでも「葵さんが台湾で成長して帰ってくるのを楽しみにしています」と言ってくれていた。本当はとても寂しかったと思うけど。

いくら「台湾で頑張ろう」と自分に発破をかけても、祖父母の家を離れるのは辛かった。出国準備中も涙は止まってくれなかった。9月よりも足取りが重かった。飛行機に乗りたくなかった。事情を知らない人の前で泣くわけにはいかないし、話したところで誰にも理解してもらえないと思ったから、同じ痛みを共有できる家族から離れたくなかった。何よりもおじいちゃんが心配だった。


台湾に帰って来たその日の夜、1番仲が良かったスウェーデン人の友達から「話したいことがあるから会えないか」と連絡が来て、とても嫌な予感がした。彼とは年齢も近かったため前々から祖母のことも含め自分のことを何でも話していて、何かあるたびに話を聞いてもらっていたので、彼にスウェーデンに帰ると打ち明けられた時はとても動揺した。私が帰国していた1ヶ月の間に色々決断したようで、私が台湾に帰って来てから4日後に彼はスウェーデンに帰ってしまった。学科内で成績1位をとってもなお「自分の夢を叶えたい」と旅立ってしまった彼のことは心から尊敬しているし応援しているが、まさに青天の霹靂だった。まさかたった1週間の間に、祖母だけでなく親しい友だちとも物理的な距離ができようとは。


それから1ヶ月が経ち、やっと気持ちの整理が出来つつあるので半年ぶりにnoteを更新してみた。この1ヶ月の私はボロボロだった。半分躁鬱状態で、人といる時はハイテンションでも1人の時は誰にもバレないように泣くか、寝て過ごしていた。祖父からあれだけ力強いメッセージをもらってもなお、元気が出ないから勉強にも集中できない。走りに行っても本を読んでいても涙が出て来て、何をしていても心の穴は塞がらない。朝は得意な方だったが、最近は朝起きるのも億劫になって来ている。1週間で良いから休みがほしい。相変わらず授業の量は多いし、課題も大量だし来月はテストもあるからとても不安だ。どんなに辛いことがあっても現実と向き合って乗り越えていくしかないという現実がもっと心を縛り付けていく。

もちろん祖母のことはまだ受け入れられていない。携帯画面に「おばあちゃん」の文字が表示されるのを待ち続けているし、家に行けばテレビの前に普通に座っていて、「おかえり〜。台湾はどうね〜?」と待ってくれているんじゃないかと思う。

今すぐにでも沖縄に帰って涙が枯れるまでは仏壇の前で泣き続けたいし、祖父のそばにいてあげたい。でも二人とも私が台湾で成長するのを楽しみに応援してくれているから、やっぱり私はここで頑張るしかない。


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