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夏の読書感想文 2023

今年も相も変わらず、生徒たちからこんな声が届く。「読書感想文、本選ばなあかんし、いっぱい書かなあかんからめんどくさい」「税の作文、どうやって書いたらいいのか分からん、書くの嫌やなあ」「社会のレポート、どうやって調べたらいいの?」

私のできうる限りで、調べ方や引用の仕方、書式などを生徒に教える。しかしまあ、その声を聞いて、読書や税のこと、夏の嫌な記憶として残ってほしくないな、と思う。すきな本を読んで、すきなように感想を述べられたら。本の中は、自由であるから。

模範解答みたいな読書感想文ではなく、大人になった今だからこそ、読書感想文をすきなように書きたい。そんなわけで、昨年に引き続き、今年も夏の読書感想文を書こうと思う。そういう趣旨で書くので、脱線したりエッセイぽくなるが悪しからず。



①岸政彦『断片的なものの社会学』/ 岸政彦・梶谷懐 編著『所有とは何か ヒト・社会・資本主義の根源』

先日、『所有とは何か』という本の出版記念のトークイベントが開かれた。せっかく岸先生に会えるなら、と以前読んでいた岸先生の『断片的なものの社会学』も読み返した。

『断片的なものの社会学』は数年前、私が自分への誕生日プレゼントとして購入した本である。久しぶりに本棚から本を取り出すと、びっくりするくらい付箋が付いていて、思わず自分でも笑ってしまう。当時、共感した文章に付箋を付けて読んでいたのだが、付箋の多さが数年前の自分自身の苦しみを物語る。そして、よくここまで生き延びたな、と自分を褒める。

あとがきの文章は特にすきだな、と思う。

不思議なことに、この社会では、ひとを尊重することと、ひとと距離を置くということが、一緒になっています。だれか他のひとを大切にしようと思ったときに、私たちはまずなにをするかというと、そっとしておく、ほっておく、距離を取る、ということをしてしまいます。
このことは、とても奇妙なことです。ひとを理解することも、自分が理解されることもあきらめる、ということが、お互いを尊重することであるかのようにいわれているのです。
でも、たしかに一方で、ひとを安易に理解しようとすることは、ひとのなかに土足で踏み込むようなことでもあります。
そもそも、私たちは、本来的に孤独な存在です。言葉にすると当たり前すぎるのですが、それでも私にとっては小さいころからの謎なのですが、私たちはこれだけ多くのひとにかこまれて暮らしているのに、脳の中では誰もがひとりきりなのです。

岸政彦『断片的なものの社会学』あとがき

先日、生徒たちに、岸先生の本のことや読んで感じたことを話した。

いまでも私は他者と関わることが難しいと思っていること、傷つけないようにしていたくてもしてしまうことがあること、また傷ついて壁をつくってしまうことがあること、それならいっそひとりで生きたいと思う瞬間があること、しかし関わらずにはいられないということ、友人や家族や恋人がいたとしても人は孤独であると思っていること。

そうしたら、笑いながら聞いている生徒もいれば(「病んでるの?先生考えすぎなんじゃない?」と笑っていた)、頷きながら共感して聞いている生徒もいたり、「先生はそういう考え方なんだね」と冷静に聞いている生徒もいた。反応がバラバラでとてもおもしろかった。笑えるならそれでいいと思う。人生たのしそうであるし。しかし、苦しみが訪れたときに、こういう手段がある(世の中にはこんな本があって苦しみが和らぐこともあるのだ)と示していられる大人でありたいな、ともちょっぴり思った。

そういえば数年前、友人に「孤独を分かち合いたいと思ってしまう」という話をしたら、「“孤独” なのに “分かち合いたい” なんて不思議だね」と言われ、たしかにそうだよなとも思った。

なにはともあれ、人は本来的に孤独であること、それでもなお人が他者と生きようとすること、その集積を垣間見て泣きながら読んだ記憶を、忘れることはないし、私の人生の糧となっている。


続いてこちら、岸政彦・梶谷懐 編著『所有とは何か ヒト・社会・資本主義の根源』

先日8/10(木)に梅田にて、著者である岸先生・梶谷先生・稲葉先生のトークイベントに参加した。「所有」をキーワードに様々な話が展開された。

ほんとうにいろんな話があったけれども、梶谷先生の中国の学習塾規制の話が印象的だった。行き過ぎた競争社会(狭き門である高学歴→大企業コースに乗るために親が塾にお金をつぎ込んで子どもに勉強させる)への人びとの中での不満と、中国政府がその不満を察知して阿吽の呼吸かのように規制を行っている、という話。中国では前もって予告なく、急に規制されてしまうそう。所有していたものが急に取り上げられる。

しかも規制する際、「ここは昔から皇帝の土地であるから…」という規制の仕方をするそう。興味深い話であるな、と思ったが、もし今の日本社会でそれをされたら、ものすごく困る。あったものが予告なく取り上げられたら、明日からどうしていけば良いのか分からなくなる。

その「所有権」が解体されたあとの社会の話、つまり岸先生による戦後沖縄の話も興味深かった。沖縄は「共同体社会」とよく言われるが、それは戦争で私的所有権が解体され、自分たちのことは自分たちで守らなければならないという状況下で生まれた、過酷さを含む自治の感覚である。
「所有」とは社会秩序の根源、という言葉が印象的であった。

その話を聞いたからいっそう、こちらの本も岸先生のあとがきが、すきだなと思った。

地球上のあらゆるところで、あらゆる境遇の人びとが、なにか小さな、かわいらしいものを「所有」している。それは歴史や社会構造の巨大な力に抵抗する、個人のささやかな希望である。なにかを所有するということは、ひとが生きるということそのものなのだ。

岸政彦・梶谷懐 編著『所有とは何か ヒト・社会・資本主義の根源』あとがき

そして、岸先生からサインまでいただきました、ほんとうにありがとうございました。

(推しに会ったようなきぶん)

人生にはこういう瞬間があるから、日々を生きてゆくことができるな、と思う。


②小野寺拓也・田野大輔『検証 ナチスは「良いこと」もしたのか?』

SNSで話題になっていたこちらの本。タイトルが、ナチスは「良いこと」もしたのか?なので、タイトルだけを見て本を読まずに、とやかく言う人が一定数いるそう。せめて読んでから論じるべきだとは思うが。

たしかに、ナチ党政権が、「アウトバーンを建設した」「失業者のために雇用をつくった」という話はNHKの番組『映像の世紀』で聞いたことがある。ヒトラーによる力強い演説も映像の中で見た。当時のドイツ国民の目には、ヒーローに見えるかもしれないな、とも思った。

しかし、この本の中で主張されるように、どういう文脈の中でそれらの政策が行われたのか、ということが重要である。戦争に突き進むための一連の政策であって、個々の事象だけを見て判断してはならない。彼らが行った残虐な行為は決して許されるものではないし、忘れてはならない。

歴史研究の蓄積を無視して、〈事実〉のレベルから〈意見〉の層へと飛躍してしまうと、「全体像」や文脈が見えないまま、個別の事象について誤った判断を下す結果となることが多いのである。そうした目的や文脈を含めてなお「良いこと」と強弁することは可能かもしれないが、現代社会においてそれが共通了解となることはおそらくないだろう。

小野寺拓也・田野大輔『検証 ナチスは「良いこと」もしたのか?』はじめに

〈事実〉〈解釈〉〈意見〉の三層に分けて検討する必要があるが、軽視されがちな点が〈解釈〉にあたる層、つまり歴史研究が積み重ねてきた膨大な知見であるという。

私も歴史学出身であるので実感しているが、ほんとうにしつこいほど(1回生の頃からずっと)、大学で先行研究の重要性を説かれてきた。言われてみれば、巷に広がる話は、〈解釈〉が少ないような気がする。もちろん意見を言うことは必要であるが、〈事実〉や〈解釈〉をすっとばして、あるいは少しの〈事実〉だけを見て、〈意見〉の層へと飛躍する。それは危険なことであるな、と思う。

さて、この本では、巷で言われる「ナチスは良いこともした」とされることを、ひとつひとつ検証していく。目次を見るとおもしろい。

目次
第1章 ナチズムとは?
第2章 ヒトラーはいかにして権力を握ったのか?
第3章 ドイツ人は熱狂的にナチ体制を支持していたのか?
第4章 経済回復はナチスのおかげ?
第5章 ナチスは労働者の味方だったのか?
第6章 手厚い家族支援?
第7章 先進的な環境保護政策?
第8章 健康帝国ナチス?

第7章の環境保護政策や動物保護政策については正直なところ知らなかった。「動物保護と戦争ってどう結びつくの…?」と思っていたが、ユダヤ人を残虐であるとみなすために行われていたと知り、「そこまでする…!?」とまで思ってしまった。

ナチ党は、「民族共同体」をスローガンにして巧みにドイツ人の支持を獲得していった。国民の間の格差や対立の解消を掲げていた。
しかし、この「民族共同体」にはユダヤ人やジプシー、共産主義者や社会主義者、同性愛者や障害者は含まれていない。徹底的に排除されていた。
そして、「民族共同体」の構築をすることで、ドイツ人を団結させ、次の戦争へ突き進もうとした。実際のところ、戦争の長期化で様々な施策が打ち切られていったのだが。

「はじめに」は岩波のホームページから試し読みができる。「はじめに」だけでも読み応えがある。「ナチス」という有名すぎるが故に、いわゆるポリコレへの反発として「良いこともした」と主張する人が現れる。そんな状況下で、歴史研究の重要さを改めて実感することができる本だな、と思う。


話は脱線するが、私は最近「ナショナルを感じるもの」にセンシティブになっている。
たとえば、京都の河原町通に日本の国旗が飾られている。あるいは、「海の日」の成立は明治天皇が航海した日からきているという事実。また、国歌斉唱をしない人に対する批難、歌わせるという暴力。

私は、「ナショナルなもの」を意識するまで、つまり中高生の頃まで、無邪気に「日本のことがだいすき」だと言っていた。いまでも日本のことはすきだ。だけれども、なにかをすきだ(特に国や地域など)と言うことは、なにかを排除しているように聞こえるのではないか、と思うようになった。

「国民国家としての近代日本」に含まれない、抑圧されたり排除されてきた人びと。そういう人たちのことを思うと、安直に「日本だいすき!」なんて言えない。傷ついてきた人たちを想像する。

いつの日か誰かが言っていた。知ることは不可逆的なことである。知ってしまったらもう、知る前には戻れない。気づいてしまったことはもう誤魔化せないし、ぶつかった問いはなかったことにはできない、と。
私はもう、無邪気には言えない。知ってしまったから。

そんな話をすると、恋人は「素敵なことだと思うよ」と言った。知ってしまった痛みを認識しながら、それでもやはり、さまざまなこともっと知っていきたいと強く思う。

ちなみにこの本、恋人と読書会(文章を読んで、その文章について検討する)という形で読み進めた。理解がより深まり、良い読書体験になったと思う。

③藤原実資 倉本一宏編『小右記』

『小右記』(しょうゆうき)は、平安時代中期に公卿の藤原実資(ふじわらのさねすけ)によって書かれた日記である。

小学校の社会の教科書にさえ載っている、有名な藤原道長の望月の和歌は、小右記に記されたために今現在に至るまで残っている。

此の世をば 我が世とぞ思ふ 望月の 欠けたる事も 無しと思へば

寛仁2年(1018年)10月16日の記事にて

そんな小右記の現代語訳&解説がついに、倉本先生によって出版される(ビギナーズ・クラシックス日本の古典シリーズに加えられる!)ことになったのである。

私は大学生のとき、日本古代史のゼミに所属していた。その際、指導教員から「倉本さんが小右記の編集作業をやっておられるから、そのうち見れるようになると思うよ」と言われ、ひそかにたのしみにしていた本なのである。

小右記、思わず笑いながら読んでしまった。人の日記(しかも千年も前!)を読むということはほんとうにおもしろい。たとえば、永延2年(988年)3月21日の記事。

摂政、仰せられて云はく、「月来、公卿、官事を勤めず。倩ら事情を思ふに、或いは朝恩を蒙り、或いは子孫の間、又、朝恩有り。而るに其の勤め無し。今より以後、一月の内に十日見仕せよ」と。

永延2年(988年)3月21日の記事にて

摂政の藤原兼家が、サボっている公卿たちに怒って、1ヶ月に10日は出勤せよと命じている文章。これに対する倉本先生のコメントが、声を出して笑ってしまうくらいにおもしろい。

平安貴族は遊んでばかりいるわけではなく、深夜までの激務を続けていたと、私はあちこちで強調してきたが、よく考えれば日記を記録するような貴族は真面目で実直に決まっているのである。いつの時代のどの階層もそうであるが、大多数の人間は怠惰で無能で嘘つきなのである。

史料っていいなあ。
当たり前かもしれないけれど、同時代に生きた人びとが日記の中から顔を出す。個人的に藤原行成のファンであるので、出てきたときにはかなり嬉しくなった。藤原実資も藤原行成も真面目に働いていて、日記の中で会話が繰り広げられていて、「ああ、生きていたんだな」と実感する。千年も前の史料が気軽に読めること、嬉しく思う。

倉本先生といえば、2024年の大河ドラマ「光る君へ」の時代考証をされるそうだ。平安時代中期が舞台になることはおそらく初だと思うので(いつもだいたい戦国か幕末)、たのしみである。

私が大学1回生のとき、日本古代・中世の研究史を扱う授業があり、その中で大河ドラマの話が出た。そのときの授業担当者は日本中世(院政期)の研究者である美川圭先生。2012年大河ドラマ「平清盛」の際に使われた「王家」という言葉について、議論や批判が起こった話をされていた。

その授業の際、私は(いま思えば傍若無人であるが)、「平安中期を舞台にした大河ドラマの可能性はないのですか?」と質問した。それに対する先生の回答はこうであった。「平安中期の政治は天皇家と密接に関わっている。天皇家を扱うということは、いまの日本ではかなりナイーヴなことである。もし天皇家を悪く描くことがあれば、かなりのバッシングがくる。だから、大河ドラマ化するのは難しいのではないだろうか」と。
そんな経緯があったから、「光る君へ」の制作が発表されたとき、驚いた。

大河ドラマに関しては、様々な意見を聞く。今年度の「どうする家康」はフィクション部分が多い。私も見ていて「これはさすがに史実とかけ離れているなあ」と思うことが多々あるが、それも含め、「大河ドラマ」がすきである。

歴史を扱うということのセンシティブさと、歴史研究の重要性を改めて感じる最近である。


④江國香織『犬とハモニカ』/江國香織『号泣する準備はできていた』

ここまでの本が学問関連が多かったので、最後は小説。江國香織さんの言葉たちを浴びて終わろうと思う。

「昼食」は、すばらしく愉快なものになった。
まるで、この日のためにずっと言葉を学び、ここで話すべきことをストックするために何年も暮らしてきた、とでもいうみたいに。

江國香織「寝室」『犬とハモニカ』

「ああ、この日のために私は学んできたんだ…!」と思う瞬間が度々訪れる。小説の中の描写は恋愛関係の中で描かれるが、それだけではなく。「このひとと話すために学んだのだ」と言っても過言ではないくらいの瞬間が人生に訪れる。だから私は学ぶことをやめられない。


人々が物事に対処するその仕方は、つねにこの世で初めてであり一度きりであるために、びっくりするほどシリアスで劇的です。 たとえば悲しみを通過するとき。それがどんなにふいうちの悲しみであろうと、その人には、たぶん、号泣する準備はできていた。喪失するためには所有が必要で、すくなくとも確かにここにあったと疑いもなく思える心持ちが必要です。そして、それは確かにそこにあったのだと思う。

江國香織『号泣する準備はできていた』あとがき

1番はじめに紹介した『所有とはなにか』の話の際に、ふと頭に浮かんだ江國香織さんのあとがき。“喪失するためには所有が必要”“確かにここにあったと疑いもなく思える心持ち”

なんという言葉遣い!
言葉ってこんなにも広かったっけ、と思ってしまうくらい、言葉の虜になる。

***

本を読むことは、私を遠い場所へ誘ってくれる。
いま目の前のことも大事であるが、そこから目を背けたくなるときがある。そんなとき、本はとてもやさしい。

お盆休みが明けたら、また忙しい日々がやってくることが予測されるけれども、ゆっくり本を読んで考えた時間が、きっと私の糧になると思う。良い本たちに巡り会えて嬉しい限りです。


昨年の読書感想文はこちら↓


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