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1月後半の日記

2022年1月16日(日)消費的で在りたくない

友人と電話をする。「最近、なんか自分が閉じてるんだよね」という漠然とした抽象的な話をする。閉じていることが良い状態なのか悪い状態なのかさえ分からないが、今閉じている。安易にジャッジしないところが、友人と話していて心地よいところだ。流れるように言葉が出てくる。

話していて分かったのは、私は大切なことを守りたいから閉じているのだ、ということだ。私が大切にしていること-過去に起こったこと・自分の好きな学問・価値観・真面目に思う気持ち・自分自身-を、安直にネタとして消費したくないのだった。大切なものを大切なものとして取っておきたい。

友人との話は、下記のネット記事の話に移る。

最近のサブスク動画と若者の傾向について。この記事の筆者は以下のようなことを主張している。
・映画がコンテンツとして(鑑賞ではなく)消費されている。
・映画の感想として、「わかんなかった(だから、つまらない)」と安易に言われる。背伸びしない。
・状況を説明するセリフが多い。シーンだけで読み取れない人が多い。
・流行についていくため、倍速で動画を見る若者がいる。

特に以下の文章が印象的だ。

説明セリフを求める傾向は、観客の民度や偏差値の問題というよりは、習慣の問題なのだ。情報過多・説明過多・無駄のないテンポの映像コンテンツばかりを浴び続ければ、どんな人間でも「それが普通」だと思うようになる。その状態で、いざ長回しの意味深なワンカット映像や、セリフなしの沈黙芝居から何かを汲み取れと言われても、戸惑うしかない。結果、出てくる感想は「わかんなかった(だから、つまらない)」「飽きる(だから、観る価値がない)」だ。積み重ねられた習慣こそが、人の教養やリテラシーを育む。抽象絵画を一度も見たことない人間が、モンドリアンの絵をいきなり見せられても、どう解釈していいかわからない。無論、抽象絵画など鑑賞しなくても人間は生きていける。同じように、セリフのないシーンに意味を見出すことができなくても、人間は生きていける。善悪ではない。

言いたいことは分かるが、悲しくなる。反面に私は、じっくり味わっていたいし、わからないものをわからないものとして持っておきたい、と強く思うのだった。作り手に最大の敬意を払いたい。つまり、消費したくないのだ。時間をかけて作られたものも、自分自身も。

2022年1月19日(水)誰かの代わりに

鷲田清一さんの『誰かの代わりに』が中学3年生の国語の教科書に収録されている。鷲田清一さんは、私が好きな哲学者のひとりだ。彼は以下のことを述べている。

「あなたにしかできないこと」を問われる現代社会では、そう問われることへの苦しさから「あなたはあなたのままでいい」と言ってくれる他者を求めるようになることがある。それは自然な成り行きでもあるが、危険なことである。他者に自己肯定を求めて依存する存在では、人は人生で見舞われる様々な苦労や問題に立ち向かうことができないからだ。私たちには、困難を引き受ける強さ、つまり「自立」が必要になる。

担当している中3の生徒と、この文章の話になる。『誰かの代わりに』はテスト範囲なのだそう。

「行き過ぎた資本主義社会の中では能力の有無でジャッジされがちで、たまに辛くなる。存在自体で価値があるって思われたくなっちゃう。」
と、つい言ってしまう。そうすると、生徒は

「俺は、自分の価値は自分で分かってるからいいっすよ。他人に委ねたくない。」

と答える。最高だな、と思った。自分の人生を他人に委ねない。引き受ける。そもそも、この文章が中学の教科書に採用されているっていいなあ。こういう話を生徒とできて嬉しい。

2022年1月22日(土)正義と忖度の狭間

Netflixでドラマ『新聞記者』を見る。見始めてすぐに題材は森友学園問題だと分かる。森友問題を巡って、2017年の国会で疑惑を追求された際、安倍晋三元首相は「私や妻が関係していたということになれば、まさに私は、それはもう間違いなく総理大臣も国会議員も辞めるということははっきり申し上げておきたい。」と述べていて、同じセリフがドラマの中で出てきた。
「そこまで描けるのか」と思わず驚き笑ってしまうほど、日本政治に切り込んだ素晴らしいドラマであった。Netflixという外資だから制作できたのだろうな、とも。

森友学園問題は、日本国の内閣総理大臣および財務省による汚職が疑われた事件。2016年(平成28年)、日本の学校法人『森友学園』が日本政府から国有地を売却された際に、異常に安い価格で購入することが許され、また異常に有利な待遇を受けて国家と売買契約を交わした。さらに、その取引は異常なことに公表されなかった。このとき、森友学園は当時の内閣総理大臣である安倍晋三の妻・安倍昭恵が「名誉校長」を務めるなど、安倍らと親密な関係にあったことから、安倍らの関与によって不正な取引が行われたという疑惑が、翌2017年(平成29年)以降に追及された。さらに、その関与を隠蔽するために、日本の財務省が国家の公文書を改竄し、安倍らに関する記述を削除した。改竄に関わった一人の財務省職員は自殺した。しかし、これらの事件に対して日本の検察が捜査を行った結果、2019年(令和元年)に関係者の全員が不起訴処分とされ、裁判へ至ることなく捜査は終了となった。ほぼ同時期に問題になった別の汚職疑惑である加計学園問題と併せて、「モリカケ問題」と俗称される。

森友問題で改ざんに関わった職員が自殺したときのニュースを、私はよく覚えている。大学卒業の頃だった。社会人になることへの楽しみと同時に、組織の中で自分自身も忖度してしまいそうで恐くなっていた。当時「忖度」という言葉が流行語大賞にまで選ばれたほどで、世間の様相を現している。

当時、自殺した職員は正義と忖度の狭間で苦しかっただろうな、と思った。日本は、正しく在ろうとするひとを殺してしまう国家なのか、と私は怒りと悲しみでいっぱいだった。大学生だった私の目には、正しく在ろうとする人を国家は切り捨てたように見えた。私はこのニュースを見て、部屋でひとり、泣いたのだった。そのときの感情が蘇る。
ドラマ『新聞記者』では、自殺した職員の苦しみがありありと描かれていて、胸が再び苦しくなった。飛躍しているかもしれないが、私は、「国家が彼を殺したのだ」と思わざるを得ない。

また、『新聞記者』のユースケサンタマリアさんが演じる役がとてつもない悪役で、誰かモデルはいるのかと思いTwitterで検索する。と、次々に名前が出てくる。複数人を象徴しているとのこと。あるいは「新聞記者の中のユースケサンタマリアは最悪だけど、現実よりまし」との声まで。事実は小説よりも奇なりとはこのことか。

『新聞記者』を見たあと、改めて森友問題のときの国会答弁の動画を見た。佐川理財局長は、一貫して官邸の関与はないと言う。そうであればなぜ、公文書改ざんは行われたのか。首相への忖度ではないのか。

やはり組織の中で権力に忖度せざるを得ない状況、吐き気がするな。公文書改ざんは民主主義の根底を揺るがす。公文書が平然と改ざんされて、日本は民主主義国家だと言えるのだろうか。政治は他人事ではない。

2022年1月28日(土)彼氏彼女の事情

漫画『彼氏彼女の事情』を1巻から21巻まで一気読みする。この漫画は1996年から2005年にかけて連載されていたものだ。今になって読もうと思ったきっかけは、先日最果タヒさんが出していたエッセイ。エッセイに『彼氏彼女の事情』が出てきて、その文章があまりにも良く、惹かれてしまったのだった。

主人公の雪野の視界から外れたところで、他の登場人物の人生や事情が開示される。学校はただの他者の人生が交差する場所でしかないのだと、作品は幾度も思わせてくれた。
彼女の他者との距離感は、私にとってたぶん一番憧れる「他人」だった。その理由を「知性」だと断言できるこの作品の力強さも、特別だった。そうだね、知性だ。考えることができる、思いを馳せることができる。わからなくても。雪野は、他人に出会って、自分を思い知って、それからずっと勇気を出している。勇気を出して、考えている。彼女における「知性」は裏を返せば勇気だった。当たり前なんてなく、そして自然に出せる「自分らしさ」なんてどこにもなく、彼女はずっと勇気を出して「自然な私」でいる。
最果タヒ「第四回:みんないろいろあるんだね÷愛情」『MANGA ÷ POEM』

主人公・雪野は、頭よし性格よしの完璧な優等生。…と周りから思われているが、実はそう見せるために、不断の努力を続ける見栄っ張り。しかし、自分よりも優秀な有馬くんに出会ったことで、雪野ちゃんはだんだんと自分を出していくようになる。
雪野ちゃんみたいに、「褒められたいから優等生のフリしてたんだよね」って認められる強さが欲しいわ。

津田雅美『彼氏彼女の事情』1巻

かっこいいな、雪野ちゃん。雪野ちゃんが悩んでいるとき、妹はこう言う。

「事実をみつけだして現実をみすえた時点で、もう半分は問題は解決されているのよ!お姉ちゃんて、いままで傷ついたことがないんだよ。ずっと褒められてきたもんね。しかも本性を上手に隠してしまったもんだから、ホントの自分を出すのが恐くなっちゃってんだよ。ウソの自分は傷つけられても痛くないけど、ホントの心は痛いもんね。」

と。妹…!本質的…!

そこから雪野ちゃんは勇気を出す。知性という名の勇気。誰だって傷つきたくない。傷つくかもしれない可能性を持ちながら、勇気を出して他人と関わっていく。クラスの女子全員に無視されたときも、恋人に拒絶されたときも、勇気を持って向き合おうとする。エゴではなく。その姿がとてもかっこいい。

それから、雪野の友人の真帆ちゃん。真帆ちゃんは、雪野ちゃんを一時期いじめていた首謀者なのだが、雪野ちゃんの勇気ある行動によって、和解して友人となったのだった。真帆ちゃんもまた、かっこいい女の子だ。

津田雅美『彼氏彼女の事情』10巻
「助けてなんて一言も言ってない。一人で考えて一人で立ち直っていこうと思ってた。私の心は私だけのものだからよ。」

と言えてしまう真帆ちゃん。かっこいいよ。強い女の子、憧れるなあ。

***

最近の私といえば、真っ暗な暗闇の中にいる感じがする。この感覚は、初めてじゃない。中高大学生のときにも、社会人になってからも、時折暗闇の中に投げ込まれてきた。時折あるからといって、慣れるわけではない。苦しい。しんどい。雁字搦め。安直に「助けて」と言いたくなってしまう。暗闇の中で、孤独だ。暗くて、出口が見つからない。抜け出したい。でも、誰かに言ったところで、その誰かが解決してくれるわけではない。

雪野ちゃんや真帆ちゃんみたいに、一人で引き受ける強さが欲しいわ。暗闇を引き受ける強さ。一人で考えて一人で立ち直っていこう。私の心は私だけのもの。

2022年1月29日(日)中世という時代

録画していたアニメ『平家物語』を見る。800年前の物語が今現在にアニメ化するとは、なんだか感慨深いものがある。

2022年大河ドラマ『鎌倉殿の13人』も同時代(平安時代末期)を描いているとあって、「最近中世ブームきてるな!?」と嬉しくなる。

私は大学時代に古代史のゼミに所属していたが、中世もとりわけ興味のある時代だ。私は大学2回生のときに日本中世史の研究者・三枝暁子先生から多大なる影響を受けた。彼女の研究対象は、中世におけるマイノリティの存在であった。私はそれまでどうしても「政治」というような大きなものに目が行きがちで、社会から疎外される人のことなど意識したことがなかった。

研究のスタイルとしては、誰もあまり気にとめないような、ささやかな世界の構造をこつこつと明らかにしていくうちに、気がついたら大きな世界をも明らかにしていた、なんていう形にあこがれています

と彼女は言っていた。授業で発せられる彼女の言葉が好きだった。言葉の奥にある、彼女の思想が好きだった。彼女のお薦めの本は全て読んだものだった。

彼女と食事に行ったとき、江國香織をお薦めされて、それから没頭して江國香織の小説を読んだものだ。私の江國香織好きは、彼女に起因する。

彼女からいただいた言葉は、ずっと心の中に大切にしまっている。

大事なものは、手放しても戻ってくるのよ

と。彼女が東京大学へ移籍しなければ、私はたぶん、中世ゼミに所属していたと思う。それくらい私は彼女に心酔と尊敬をしていたのだった。そんな経緯もあり、中世は私にとって特別な時代だ。

話は『平家物語』に戻る。第3話目は、「鹿ヶ谷の陰謀」だった。鹿ヶ谷の陰謀が露見し、平清盛は後白河法皇を捕まえようとする。その際、平重盛は、

忠ならんと欲すれば孝ならず。孝ならんと欲すれば忠ならず。進退これ極まれり。

と言う。主君(後白河)に忠義を尽くそうとすれば親(平清盛)に逆らうこととなり孝行できず、親に孝行しようとすれば主君に背くことになり不忠となる。

後白河や平清盛といった怪物たちの忠と孝の狭間で、平重盛の苦悩といったら、それはもう計り知れないだろう。その中で発された言葉は、印象に残り続けている。「忠ならんと欲すれば孝ならず 孝ならんと欲すれば忠ならず」の言葉が、音が、とても好きだ。

先月、兵庫へ行った。一ノ谷の合戦跡など、源平の合戦にまつわる場所を巡る。須磨寺で、平敦盛の笛を見た。『平家物語』の「敦盛の最期」は、中学校の国語の教科書に載るくらい有名な話だ。原文で読むリズムがとても心地良い。

「さては、なんじにあうては、名のるまじいぞ。なんじがためにはよい敵ぞ。名のらずとも首をとつて人に問へ。見知らうずるぞ。」とぞのたまひける。熊谷、「あっぱれ大将軍や。この人一人討ちたてまつりたりとも、負くべきいくさに勝つべきやうもなし。また討ちたてまつらずとも、勝つべきいくさに負くることもよもあらじ。小次郎が薄手負うたるをだに、直実は心苦しうこそ思ふに、この殿の父、討たれぬと聞いて、いかばかりか嘆きたまはずらん。あはれ助けたてまつらばや。」と思ひて、後ろをきつと見ければ、土肥、梶原五十騎ばかりでつづいたり。熊谷、涙をおさえて申しけるは、「助けまゐらせんとは存じ候へども、見方の軍兵、雲霞のごとく候ふ。よものがれさせたまはじ。 人手にかけまゐらせんより、同じくは、直実が手にかけまゐらせて、後の御孝養をこそつかまつり候はめ。」と申しければ、「ただとくとく首をとれ。」とぞのたまひける。
「敦盛の最期」『平家物語』

平敦盛を討ち取った熊谷直実が、供養のために敦盛の笛を須磨寺に持って行って納めたらしい。まさか本物が現存しているなんて思ってもおらず、物語の中の話だけだと思っていた私は感動しっぱなしであった。須磨寺はまた訪れたい場所だな、と思う。

『平家物語』に触れるたび、無常だと思い知らされる。物事は、変わってゆく。変わらざるを得ない。

祇園精舎の鐘の声 諸行無常の響きあり
沙羅双樹の花の色 盛者必衰の理をあらわす
おごれる人も久しからず ただ春の夜の夢のごとし 
たけき者もつひには滅びぬ ひとへに風の前の塵に同じ
『平家物語』冒頭部

「“ただ春の夜の夢のごとし”っていい響きだね」と言っていたあのひとは、その言葉の意味を分かって言っていたのだろうか。もしそうだったとしたら残酷だな。残酷。もうあのひとはここにはいない。流れゆく、さまざまなこと。

平重盛も、平敦盛も、徳子も、安徳天皇も、渦の中に巻き込まれてゆく。平家のひとたち、愛おしいな。滅亡してゆくのを知りながらも、応援してしまうのだった。歴史の流れには逆らえないのに。


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