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【ネムキリスペクト】絵のなかで恋をしている

 ふとこんな想像に囚われることがある。
 私は写真のように精緻な絵を見ている。絵を眺める少女の絵だ。彼女が見つめる額の中にも、絵を鑑賞する少女の絵が描かれており、その少女の視線の先にも、絵を見る少女の絵がある…
 私のもつカメラ眼が、次々と続く額の連なりの中をトンネルのように通り抜けてゆく。その中に描かれたあらゆるものをつぶさに見て取る。絵の中の少女は気難しそうであまり美しくもないなどと、冷淡に批評する。
 そして、やっと私の眼が私の身体に戻ってきた時、私は背後を振り返り、自分の後ろにも大きな額の連なりが続々と遠くまであるのを発見する。額の外にも少女がいて、彼女の背後の額の外にも少女がいて…そして絵の中の私をつぶさに見て、冷淡に批評する。
 それはある種の劣等感であった。常により大きな存在の下で、私はちっぽけな考えを偉そうに振りかざし、豆粒のような自分を大層のように思いなし、微粒子のような石につまづいているにすぎない。

 見るな。

 彼ははっと目を覚ました。頭を振り、髪を掻きながら体をおこす。朝日がおよおよとカーテンの隙間を浸している。
 親から離れてひとりで住んでいると部屋が散らかって良くない。彼は床に散らばった本や塵を足で押しのけて朝の支度をする。取り敢えず胃の空洞を埋め、学校鞄を肩に家を出た。
 既に生温い空気には霞のような眠気が混ざっている。彼はむやみに自転車を漕ぐ。
 小さな十字路にはこぢんまりとした花屋があった。店先に大きなバケツをいくつも出しながら、深緑のエプロンをつけたポニーテールの店員が微笑をうかべて挨拶をする。彼はやや速度を緩め、あごを胸に埋めるようにして会釈を返し、そそくさと走り去る。今日も吉日だ、と密かに思う。
 彼がこの道を使うようになって三週間ほどだが、花屋のその店員は毎朝ひとりで重そうなバケツを出しながら、まばらな通行人に挨拶をしている。靴を蹴飛ばして明日の天気を占うように、いつしか彼は、一日の運勢を彼女の微笑に託して占うようになっていた。花びらがほころぶような、つつましやかで匂いやかな微笑。いつも変わらないその微笑が、変わりやすい一日の運気を占う筈もなかったのだが、そして彼自身も自分のそのような迷信めいた習慣を恥じたが、しかしやはり、彼はその細い十字路に近づくたびに「あーした天気になーれ」と靴を放る子供に似た胸の高鳴りを感じ、いつも通りおはようございますと微笑を向けられると、今日一日がそれによって守られるような気持ちがするのだった。

 すっかり遅くなった。彼はうすくあいた口の中でささやかな舌打ちをする。幼い頃祖母から繰り返し聞かされた、舌打ちをすると舌が切れるという訓戒が、いまだに舌の根に残って強張るのだ。
 彼はむやみに自転車を漕ぐ。例の十字路に差し掛かると、ほのかな橙色の夕日をせせらぎのように流した花々を、花屋の女のひとが店の中に仕舞っているところだった。
「あっ」
 彼の目の前で、大きな深緑のバケツが盛大な水しぶきとともに転倒した。活けてあった色とりどりの花々が、なよやかな首を大仰に揺らして路上に投げ出されたのが、彼の眼に黄や赤の雪崩の残像として映じた。彼は急停止して自転車を道端に放り、バケツを立て直して花を拾い集めた。
「ああっ、ごめんなさい!」
 深緑のエプロンの店員は道に這いつくばるようにして残った花をかき集め、彼の拾った花を受け取った。八の字に眉を下げて微笑しながら、彼女は腕に抱えた花の匂いがした。彼は突然、自分の身体がこれ程俊敏にまた自然に動いて、彼女に接近したことを自覚し不思議に感じた。
「しぶきがかかったりしませんでしたか?」
 彼女は少しさがって、申し訳なさそうに彼の制服と靴を気遣う。
「ええ僕は平気です」
 と簡単に答えると、彼女はいつもの花びらのほころぶようなつつましやかな微笑をうかべて、
「よかった。手伝ってくださってありがとう。お優しいんですね」
 彼は自分の顔がその微笑を、歪んだ鏡に映したように模すのを感じながら呆然とする。頭が追い付いてみると、先程までの自然が身体を抜け落ちてしまったのを彼ははっきりと意識した。意地の悪い小さな炎が胃のあたりを舐め、せっついているような居心地の悪さを感じた。
「…それでは」
 彼は唐突に背を向けて自転車のほうへ走った。さっき投げ捨てた自転車を乱暴に起こすやいなや跨り、狂気のように漕ぎ出す。
「お気をつけてー」
 のびやかな美しい声を遥か後ろに聞いて、彼は次の角を曲がるまで、速度を緩めなかった。陽に透けて明るい茶色に輝いた彼女の眼と、腕に抱えた花の芳香とが、暫く頭を離れなかった。

 その翌日から、花屋の挨拶はおはようございますからいってらっしゃいに変わった。彼に向けられる微笑も、より親しいものになったように思われ、彼は前日の失敗を繰り返しはしまいと固く心に誓っていたのが、ふわふわと揺らぎだして落ち着かなくなった。いつもより一層深くあごを胸に埋めて、彼はぎゅっと奥歯を噛んだ。彼にとっては人の温かみがすべて、着慣れぬごわごわした、肩に掛ければそわそわする王者のマントのように感ぜられていたのだ。
 昼休みの食堂は、喧騒が白い壁になり沢山並んだテーブルになって顕現したとでも形容すべき有様だ。彼は周りの仲間たち同士の打てば響くようなお喋りを、にやにや笑いを顔に張り付けて聞き流しながら箸を動かす。
「恭平お前相変わらずつれない奴だな。お前をぼっちから救ったのは誰だ」
 祐介が思い出したように憤慨して彼の頭を肘で小突く。彼はふと真顔に戻り、相手の目を見て言った。
「うん感謝してる」
 祐介が毒気を抜かれて間抜け顔になるのを視界の端に捉え、少々満足した彼は、しかし、友達は大事にしなければならないと心から思う。周りの仲間たちのように、簡単に馬鹿だの腰抜けだのと言い合ってふざけることができなかった。それはその言葉の完全なる諧謔性を互いの心の底に明瞭に見て取っているからこそできる所作であって、彼はまだその境地に達していないのだ。ひとを傷つけるのは苦しい。ひとを傷つけるのは嫌だ。
「…おま…ひとたらしかよ」
 眉を思い切りしかめながら口元をひくつかせる祐介を見て、彼はまた王者のマントを羽織る気持ちで頬を緩めた。

「あら」
「どうも」
 彼は小さな声で言って頭を下げる。ざあざあと酷い雨だ。梅雨が近い。花屋の店員は店先のパラソルの下で、窓に新しいブーケを掛けている。
「お出掛けですか?」
 彼は傘をさしたまま店先に突っ立っていた。何度も頭の中で繰り返して練習した文言が、うまく出てこないことに苛立つ。
「えと…花をいただきたいのですが」
「あら」
 と彼女はまた言って、笑った。
「好きな子でもできたの?」
 …からかわれた。彼は一秒後にそう気づいて刺すような痛みを覚えた。彼女はいつもの微笑の優しい指で、彼の自尊心に小さなひっかき傷をつくったのだ。瞬間、すべてのものが憎くなった。世界中が音をたてて彼を嘲笑った。こんな小さなことに、たった一瞬でも傷つく程には、自分は子供だと思ってまた悔しくなった。奥歯を嚙み合わせたままへらっと笑って、彼はやっと頭の中のシナリオ通りの言葉を口にした。
「祖母の見舞いで。これから病院に…」
「ああ、そうでしたか!ごめんなさい、私ってばなんて不謹慎な」
 彼女はぱちんと両手を頬にあてて、いつか花のバケツを倒したときの、どこまでも誠実な謝罪の表情になった。
「おばあさまはどんなお花がお好きなんですか?」
 尋ねられても彼は知らないと答えるよりほかになかった。祖母はもう久しく庭いじりをしていない。
 毎週末の祖母の見舞いに花を持っていこうというのは、全くの思いつきだった。両親の不仲だった彼が、幼いころからべったりに頼ってきた祖母。たったひとりの孫を、彼女はとても大切にしてくれた。なんとなく、いつでも転がり込める家が、ずっと、そこにあるような気がしていた。
 最後に訪問した時、祖母はあまり勉強しすぎるなとか、都会は危ないから地元にいるようにしなさいとか、いつものようにしつこく繰り返しては言わなかった。むしろ、自分に気を使って勉強を早く切り上げて寝ようなどどしなくてよい、思い切り勉強しなさい、好きなところに行きなさい、とまるで反対のことを言う彼女が、薄気味悪いくらいに彼の眼に映った。ぎゅっと心臓を掴む感覚がたまらない寂しさだと気づいて、いつかくる別れが、ふわりと薄靄の中に立ち現れたように思えた。彼は腕を伸ばして祖母の存在を確かめたかったが、何故か、何かが、彼を阻んだ。伸ばしてしまえばきっと呆気ないくらい簡単に届いただろう手を何故下ろしたのか、夜中にひとり布団の中で考えていたら、本当に祖母は手の届かないところへ消えてしまいそうな気がして、居ても立っても居られなくなった。
 それで彼は唇を軽く噛んで、パラソルの下、真剣にあれこれと提案をくれる店員と花々の間でせわしく視線をゆききさせている。パラソルを叩く雨音が、何かさっくりとしたものにたくさん穴をあけているようだ。
 深緑のエプロンについた小さなプラスチックプレートには、古谷涼葉、と印刷されていた。

 祖母は存外元気そうだった。あと二週間も不味い病院食を食べなければならないと、彼に散々文句を言ってきた。
「ねえあなた病院食なんて食べたことありますかーちゅうたら、ありません言うから、ならあんた一度食べてみなさい、あたしらはずーっとこれたいたら、はーそら大変ですなちゆうてにこにこしとらすとよ」
 と、彼女はいつもの、独特の緩急のついた、のんびりしているようで早口な口調で、看護師を非難した。
 彼の持ってきた小ぶりの薔薇は大いに祖母を興がらせた。
「まああー、ありがとうねえ。かあいらしなー」
 彼女の歯の抜けた笑顔を見て、彼はほっと安堵した。結局、わざわざ花屋の彼女―古谷さんの博識を借りずとも出せたあまりに平凡な結論として、彼はその珊瑚色のドレスのような可憐な花びらのついた小さな薔薇を選んだのだった。

 教室に入ると祐介はじめ何人かの男どもが集まって、クラスメイトのひとりを取り囲んでいた。
「なんだこの危ない図は」
 彼は思わず呟く。独り言のつもりだったのに、後ろから答えが返ってきた。
「なんかねえ、大江が森ちゃんの連絡先ゲットしたとかしないとかで、今中島たちが尋問中」
「詳しいね」
 と返せば、
「嫌でも聞こえてくるよあの煩い奴」
 明里が彼の机に手をついて、大江を取り囲んで意地の悪い楽しみに耽っている連中を睨む。
「ところで瀬川、数学のノート貸して」
「唐突だな、いつも通り」
「さんきゅ」
 彼女はノートを受け取り、歯をにっと見せる笑みで自分の席に戻った。

「どわ、凄い雨」
 祐介が呟いた。
「傘、持ってるか」
 と問うと、
「持ってない。自転車で強行突破するつもりで来た」
「最初から決めてるなら世話はないな」
 彼は眉を下げて笑う。知らず、涼葉さんの表情を真似ていると気づいて少なからず驚く。
「俺の置き傘貸してもいいけど」
 お伺いを立てるように、前髪の陰からちらりと隣へ目をやると、祐介は天井を仰いだ。
「...勿体ない奴」
「なにが」
 驚いて問うと、祐介は眼をぐりぐりさせた。
「明里ちゃんにとっとけ、そういうのは」
「…明里、ちゃん?」
 彼が絶句している間に、祐介は溜息をついて走って行ってしまった。
「あいつは一体いつから明里をちゃん付けで呼ぶ仲になったんだ」
 彼はひとり呟くと、なにやらくすぐったい笑いが込み上げてきて、にやにやしながら傘をさした。空気はしっとりと吸い付くようで、人肌にはやや冷たかった。

「…あら」
 古谷さんは傘をさして、シャッターを下ろした店の横の小さな扉から出るところだった。
「…お出掛けですか」
 昨日の彼女の台詞をそのまま返す。そんな洒落っ気は彼にしては快挙だった。祐介の明里ちゃん発言に浮かれていたせいかもしれない。
「ええちょっと。昨日は喜んでいただけた?」
 彼女はにっこり笑って尋ねる。彼はこっくり頷いた。
「ありがとうございました」
 改めて礼を述べると、涼葉さんは嬉しそうに目を細めて手を顔の前で振った。
「いいえ、私は本当に何も」
 とてもいいひとなのだなと、彼は何度目かにそう思った。もともと機嫌が良いせいもあって、なんとなくさっさと立ち去ってしまう気にはなれずに立ち止まったままでいる。雨がぱたぱたと響く。思えば彼女がエプロンをしていないのは珍しかった。淡い桃色のワンピースに深緑のカーディガン。大きめのトートバッグを提げている。
「…私も今日はお見舞いなんです」
 少し寂しそうに、しかし嬉しそうにそう言って、彼女は小さく会釈して去った。


 祖母が退院してから、彼は時々花を持って彼女を訪ねた。花屋の店先で、バケツに入った名前もよくわからない花々をざっと眺めて、これと思うものを素直に選ぶ術を身に付けた。店に入ってごく少額の会計をしてもらいながら、涼葉さんとぽつぽつ会話した。彼が突然花を持って訪れるようになったのを面白がって、祖母は花屋のことをしきりに詮索したがった。
 そして今、教室は夏休みの計画を語り合う、愉し気なお喋りをやんわり包んでいる。彼はいつもであればじっくり見ることのない、真昼間の憎らしいほどの青空を眺めた。これからなんだってできる。天頂付近を渡る痛いくらい白い太陽に、無限の時間を感じた。

 穏やかに夏は過ぎた。
 一度だけ、母親から電話があった。毎食きちんと食べているか、怪我や病気をしていないか、仕送りに不足はないか、ばあちゃんは元気かと、チェックリストを読み上げるようにやや早口で尋ねてきて、彼は短くああとかいやとか口を挟むだけだったが、それでも電話を切ったときにはほっと息が漏れた。知らぬ間に歩き回っていたらしい。彼は自分がキッチンにいるのに気づいて頭を掻いた。
 自分を守って強くなった彼女は、世界を敵に身体をはすにして目を鋭く細めていた。言葉の端々に薔薇の棘のような武器がちらついた。彼は母をたったひとりだと思った。彼女が恐ろしかった。それでも貴女は間違っていないと、何故か叫びたくなった。
 今回も、彼女に今幸せかと確かめるのを忘れた。
 親は神様ではない。おかしな幻想を幻想だと気づいたとき、彼は心のうちを、裏切られたような憤りと不安の微かな影が、料理を心ゆくまで食べる前に取り上げられたような感覚と共に、通り抜けたのを覚えている。生まれた時からそばにいて、何もできない赤ん坊のほしいものを何でもくれた、それは神様ではない。何度もそう心に繰り返した。だから、苦しいならやめていいんだ。俺のために顔を見るのも疎ましい人間と暮らすことを、強いる権利は俺にはない。彼は繰り返し思った。
 けれど、それでも、空気のように単純で、ただただ平穏なだけの家族の生活を望んだ俺は、傷ついた人間を見ないふりをして、いつも通りの関係が変わることを厭うた。たとえそれで、息子にとって神様であらなければならないだけの、ひとりの人間が壊れてしまうとしても、どうでもよかったのだ。誰かを傷つけるのは、嫌だ。そう思っていた筈なのに。
 夫婦でいるのが辛い。家族でいるのが辛い。そう言って泣きじゃくり罵り合う両親を見るたびに、彼は心中に呟かずにいられなかった。
 俺のはどうなるんだよ。
 俺の家族を、壊すな。
 彼は自分を心底憎んだ。けれど一度鳴り出した言葉は、布団を被った頭の中にこだまして、なかなか消えてくれなかった。
 だから、祈りで醜い赤むけの心を包む。電話口の向こうにいたあのひとが、今少しは、楽でありますように。
 それは誤魔化しだろうか?

 休み明け、教室に入ると何やら騒がしかった。その原因は、始業式の後、放課となってから知れた。
「おっめでとー!大江」
 真っ先に祐介が大江の首に片腕を回した。
「ラーメン奢る。詳しく聞かせろ」
 と引きずるように校門をくぐる。
「あいつ、心変わり早いよね」
 明里が後ろで顔を歪める。何のことかと彼が尋ねると、
「大江。森ちゃんから木崎華に乗り換えたんだよ。体育祭ラッシュってやつ」
「ふうーん」
 そういうものがあると話には聞いていたが、現実の話とは知らなかった。
「森ちゃんは森ちゃんで兼光とくっつくし」
「へえ」
 彼は驚いた。夏休みの間に、何度世界はでんぐり返るのだろう。
「ところで瀬川、昼一緒に食べない?」
 明里は視線を祐介たちの背中に向けたまま言った。彼は話題の転換が苦手だった。
「なにその顔。嫌ならいい」
 突然振り向いて顔をしかめられた。彼はまた驚いた。
「…唐突だな、いつも通り」
「なによ毎日同じ机で給食食べてたくせに」
「懐かしいな。時々晩御飯もご馳走になったよね」
「なにおじいちゃんみたいな顔してんの」
「さっきから三回なにって言った」
「いいから!昼!なにが...」
 なにがいい、と言おうとしたのだろう。明里は全身で苛立ちを表明しながら、にやつく彼に鞄をぶつけた。
 まだ夏休み気分の抜けない正午。ぎらぎら照り付ける太陽の万能感を全身に浴びて、大切な友達と楽しい会話をしながらも、心のどこかで着慣れないと、相応しくないと、感じている。

 学校で突然呼び出されて、祖母が病院に搬送されたと聞いた。彼は自分が至極落ち着いているのを近くで眺めながら、荷物をまとめて自転車に乗った。実際落ち着いていたのは身体の動きだけで、胃のあたりはちりちりと焦げるようだった。
 祖母が病室で穏やかに眠っているのを見て、やっと少し息を吐く。暑さに参ったのだろうということだった。
 昼過ぎだった。何も食べていなかったから、取り敢えず食堂へ降りた。思いがけない人物に出会った。
「あら」
「…どうも」
 平日で、昼食時にもやや遅いくらいだったので、食堂は空いていた。涼葉さんはひとりで隅の四人掛けのテーブルにいた。よかったらと明るく笑い、自分の向かいを指すので、彼は首を縮めるように頭を下げて腰掛けた。
「学校じゃないの?」
「ええ抜けてきました」
「おばあさまかしら。あの…大丈夫なの?」
 彼は曖昧に笑って頷く。
「軽い熱中症みたいなものだそうで。涼…あの、古谷さんも、お見舞いですか」
 ええ、まあと、今度は彼女が曖昧に笑った。
「僕、ご飯買ってきます」
 彼が腰を浮かすと、涼葉さんは何か言いたげにしたが、彼女が言を発する前に、言葉が口から転がり出てきた。
「もしよかったら僕が食べ終わるまで一緒にいてくださいませんか」
 一気に言ってしまってから彼は頭を抱えたい思いがしたが、涼葉さんはいつも通りの花のほころぶような笑みで返してくれた。
「ええお喋りしましょう。急がなくてもいいから」
 急に、慕わしい、狂おしい、胸が締め付けられるような感覚が彼をとらえて揺すぶった。今顔を歪めて目を閉じれば、きっと涙が零れる。彼は無理に顔をそむけて浅い呼吸を繰り返した。
 ぽつりぽつりといろいろなことを話した。とりとめもない話、主に彼の祖母の思い出だった。どうしてそんな話を、何の義理もない彼女が、こんなに熱心に聴いてくれるのかはわからなかった。定食の最後のひと口を口に入れて箸を置き、ふっと息を吐くと、彼はテーブルの上に何気なく置いた自分の手に、涼葉さんの手が載せられるのを見て驚いた。花屋の手はかさついて皮が厚く、少しひんやりとしていた。
「おばあさまも、あなたのようなお孫さんをもって幸せですよ」
 肝心なのは言葉ではなかった。彼女の声と、眸と、手の皮膚の重なった温度が、すべてが大丈夫だと優しく告げていた。わかられているのだと悟った。喉が締まったように苦しくなって、視界がぐにゃりと歪んだ。奥歯を噛みしめて笑いながら、彼は結局涙を止めることを諦めた。
 これくらいひとりで飲み込んでしまえるつもりだったのに。自分が腹立たしい一方、頬を伝う涙の感覚と、目の前の美しい優しい顔が悲しみに潤む光景を、どこかで心地良いと感じている。これは味をしめてしまう。甘ったるい幼い気持ちが首を擡げて、しかし彼は矜りをかき集めて手を引っ込め顔を擦った。
「すみません、ほんとに。もう戻ります」
 口が勝手に動くのを感じながら、彼は自分で自分に、戻るってどこへだと問う。学校か、祖母の病室か、自分の家か。何らの考えもあるはずがなかった。急に、どこでもいいからひとりになりたくなったのだ。これ以上目の前のこのひとと一緒にいたら、言わなくて良いことまで言ってしまいそうだった。
 眉をさげてじっと彼を見上げる涼葉さんに要領を得ないことを呟いて、彼はさっさと盆を持って席を離れた。食堂を出るときちらと振り返ると、彼女は励ますように微笑んで、柳の葉がそよぐように、そっと手を振った。
 誰の見舞いだったのか聞くのを忘れたな、と思ったのは、病院の一階をあてもなくうろうろしつくした後だった。別段面白いものがあったわけでもなかったが、家に帰るのも、学校に戻るのも、何か違う気がした。
 とはいえ一周すれば他にすることもない。なんとなくゆるやかに歩いて受付の近くまで出ると、涼葉さんが病院の寝間着を着たひとと一緒に座って話をしていた。頬がこけ、顔つきがやつれて、髪が薄くなっていても、くしゃっと崩れる笑みのやわらかな男のひとだった。涼葉さんは始終慈しむような笑みでそのひとの手を握り、そっと手の甲を撫でて、何か小声で話していた。彼女が帰るのを、そのひとは送りに来たらしかった。傍らに点滴を連れていた。
 彼はその光景を一瞬間に目に焼き付けて、そっと背を向けた。てくてく歩いて、別の出口から外へ出た。駐輪場には遠回りになってしまったが、それでもよかった。


 恋の話。
 秋のなんとか研修旅行で、高校一年生は山奥の古い合宿所に収容され、四日三晩そこで過ごす。となれば夜、若人が八人同じ部屋に雑魚寝して、話すことはそれしかないらしい。
 浮ついている、とも、馬鹿らしい、とも、彼は特に思わない。他人の話を聞くのはむしろ楽しい。ただ僕に聞いても面白いものは何も出てこないが、と戸惑うだけだ。何かあったろうかと、一日の疲れで愚鈍になった頭で考える時間を、祐介たちは心あたりがあって照れているのだと解釈したようだ。
「さっさと吐けよ」
 暗闇の中で、声だけが隣で笑っている。
 彼は少々焦る。なんでもいいから言葉を発そうと、彼はぽつんと口を開いた。
「恋って…なんだ」
 祐介が、なんだそれ、逃げんのかと責めるが、彼は気にならない。頭が重くて、もう何も考えたくない。祐介が舌打ちして、起こしていた身体を布団の中に沈める音がする。舌打ちすると舌が切れるんだよ。彼はもう少しでそう言いそうになった。すると耳の隣で、彼の声が囁いた。
「笹原は?好きなんじゃねえの?」
「明里のことか。うん好きだけど」
 それでも恋とは何だろうと思った。病院を出て自転車をむやみに漕いだ。別に大したことじゃないと、自分の心の平静さを眺めて満足めいたものを覚えた。けれど、ペダルを三十回沈める毎に、待合室でふたりが手を握り合っていた光景が脳裏を繰り返し、波のようにちらつく。それが何度目かになってようやく、彼は世間ではこれを失恋と呼ぶのかなあなどと予想がついた。ちょうど、はじめて足を攣ったときに、筋肉の引き攣る未知の感覚にひとしきり動揺した後で、ああこれを足が攣ったと言っていたのかと、しかし他人の足が攣った感覚は知りようがないから、果たしてこれが本当に攣ったということなのかしらんなどと、首を傾げつつ仮の名として、その状態を攣ったと命名するようなものだった。
「下の名前で呼んでる時点で…」
 祐介は呆れたように呟く。彼は今の会話の内容を思い出すのに少し時間がかかった。
「毎日見てるから」
 彼が眠りかけた声を出すと、祐介は小馬鹿にしたように「はい?」と言って彼の肩を殴った。
「みんなが朝ドラヒロインを好きなのは、毎日見てるから」
 何を言い出すんだという顔をしているのが、気配でわかる。
「広告がしつこいのは、たくさん見たら好きになって買ってくれるから」
「…だから、何だってんだよ」
 祐介は不貞腐れた声を出す。彼は答えなかった。失恋したというのなら、俺は恋をしていたのだろうか。毎日見ているのだから、彼女を好きだと言って、合っているだろうか。
 失われた慈母のぬくみ、あの花びらのほころぶような笑みが、自分に全部与えられたらいいと思った。けれどそれは、心ゆくまで味わう前に取り上げられた料理に対する、未練と言って差し支えなかった。子熊が母熊を求めるような切実さで、しかし、世の恋するひとはこんなに幼い気持ちでいるのだろうか。本当に?狂おしい、慕わしい、あの心臓を鷲掴みにされたような苦しさは、一体何の感覚だったのか。
 そうしてみると、今度は明里だ。いつもそばにいて、一緒に喋ったり笑ったり、彼女は明るくて、多分、誰よりも心の休まるひと。
「うだうだ五月蠅い。明里ちゃんがかわいそうだ。そんなにいらないなら俺が貰う」
 祐介は彼の布団をやたらに叩いて面倒臭そうに言う。友人が周りを憚って始終囁き声なのが、彼には意外でもあり予想通りでもあった。
「お前、優しいよなあ」
 溜息まじりにそう囁き返すと、祐介ははあ?と間抜けな声を出した。
「でも、貰うってのは良くない。明里は明里のもんだろ」
 彼は回らない口でやっとそれだけ言うと、上下の瞼どうしの引力に抵抗するのをやめた。
「…そうかよ」
 祐介が首を振るのが気配でわかった。始業式の後に、明里とふたりでハンバーガーを食べに行ったことを自首したほうが良かったろうかとちらと考えたが、一層怒られそうだから何も言わなかった。
 ふと頬になにかひんやりしたものが触れて、すぐに離れた。祐介が腹立ちまぎれにつねったのかとも思ったが、それにしては少し、感触が優しすぎた気がした。

 研修旅行の最後の晩だった。山奥の合宿所の周囲はまったき夜で、視線を上げればその分だけ、どこまでも星々に埋め尽くされた。空気は凍てつく程冷たくて、彼は風呂上がりの火照った身体にもフリースを引っ掛けてきて良かったと思った。
 なんら面白いことのなかった研修旅行だったが、これだけの星を一時に頭の上へ集められるなら悪くはなかったかもしれない。漏れてくる施設の明かりに背を向けて、彼はぐっと首を反らせて天蓋を見つめる。ふと目の前の小さな林から嬌声が聞こえてきたような気がして、彼は視線を地表に戻した。
「きもだめし。やってるんだって。新川派閥が、女子何人か誘ってさ」
 振り返れば明里がいた。今合宿所から出てきたらしかった。
「よくやるよねえ、あたし絶対無理。二重に寒くなって風邪ひく」
 彼はその言い草に少し笑った。
「明里も見てみなよ、星。凄いから」
 彼女は隣に歩いてきた。同時に空を見上げて、はっと息をのむ音がする。
「…星ってほんとに瞬きするんだね」
 しばしの沈黙の後、明里が呟いた。白い息が視界に立ち昇ってきたので、ふたりで面白がってことばにのせて白い息を吐いた。
「星がこんなに明るいなんて、思ったことなかった」
「俺も。あっちに月も出てる。明るいね」
「綺麗ですね、じゃないんだ?」
 彼女の声はにやにや笑いが滲んでいた。
「…それ夏目漱石だっけ」
「知らん。松島や、とおんなじでしょ。後付けじゃないの」
「なあ明里…」
「瀬川は」
 彼が口を開いたのを遮って、明里は急にぐっと彼に向き直り、見上げる眼に刺すような力を込めた。
「あんたは、ほんとにむかつく奴。ふわふわして鈍くさくて。あたしのこと考えたことある?あんたは、そんなにひとに優しいのに、ひとのこと考えたことは一度だってないのよ。自分が傷つきたくないから、そんなにへらへら笑って、蝶々みたいな睫毛の下で、そんな大きい眼の中で優しい顔してるだけじゃない」
 声は荒げなかった。あくまで淡泊な口調で、しかし、彼は明里がこんなに怒るのは見たことがない。ことばのいちいちが、自分の急所を次々と、正確に突くようで、彼は思わず胸を押さえた。同じことばをほかの誰かに言われたって、こんなに苦しくないだろうとも思った。そもそも長い付き合いで一度も喧嘩をしたことがなかったと、彼は急に思い出した。
「…ごめん」
 彼は頭を下げた。明里が頭上で小さく舌打ちするのが聞こえた。俺はどうやら周りのひとに舌打ちさせるのが得意なようだと思ったが笑えなかった。
「…態度で示せ」
 低い声で凄むように呟くと、彼女は踵を返して施設に戻りかけた。彼はぱっとその袖を掴み、顔を上げて白い息で言い切った。
「なあ明里、好きだ」
 彼女は思い切り顔をしかめた。
「よく言えたものだわ。鉄面皮」
 全身全霊で不機嫌そうだが立ち去りはしなかった。
「…でも、あたしから言ってあんたに唐突だないつも通りって言われるよりはましかな」

 すべてがおさまるところにおさまったのだと、彼は急に思った。人の世はそんなものかもしれないと、一種アイロニカルな考えも浮かんだ。けれど今、彼は確かに幸せだった。
 明里を部屋に送った後、おそらくは合宿所中をうろついて所謂面白い話を漁っているであろう、軽薄なようで思いやり深い友人のことをふと思った。明里がさっき星空の下にやって来たのは、あるいは彼のせいであったのではないかと、そんな想像をして笑みがこぼれた。


「おはようございます」
「いってらっしゃい」
 きんと凍てつく空気の中で、涼葉さんは花がほころぶように笑う。彼は急に自転車から降りて、細長い紙袋を差し出した。
「…クリスマスローズ?」
 彼女は目を見張って、袋から顔を出す花々と彼の顔を見比べた。
「はい、昨日祖母の庭で咲いた花で」
 あら、と彼女は手を口元に遣り、彼を見上げて微笑んだ。
「よかったですね」
 彼は無言で頷く。
「ちょっとびっくりしちゃったわ、これワインが入ってるやつじゃない」
「ええ他に良いのがなかったらしくて」
 彼は祖母の為に言い訳をする。
「お花屋さんに花を上げるのもなんですけど。いろいろお世話になりましたから。お礼の気持ちです」
 涼葉さんはありがとうと一層にっこりして受け取った。
「花屋をしてると、花束なんて貰わないんですよ」
 彼女が至極残念そうに言うのが可笑しくて、彼は白い息を吐いて笑う。
「あなたがお見舞いに行っている方は、良くなりましたか」
 ふと問うと、彼女は嬉しそうに頷いた。
「春になったら、また一緒にここの店番できそうです」
 それは良かったと心から返して、彼は再び自転車に跨りゆっくりと漕ぎ始めた。



 彼女はペンを置いた。ふうっと息を吐き、窓の外を見ると昇ったばかりだった筈の日が沈んでいくところだった。
 本当は、さっさと終わらせるつもりだった。けれど書き出すと登場人物たちが可愛くなってきてしまったのだ。…とは言いつつ、書きながら何度も頭を抱えた。なんという茶番。下らん。そもそもなんだこの主人公。気持ち悪い。だが、まあ仕方がない。自分は何が得意で、何が求められているか、彼女はよく知っているつもりだ。
 立ち上がって伸びをする。腰を捻ればぼきぼきと音が鳴る。取り敢えず胃の空洞を埋めようと、彼女はキッチンへ向かった。

 夜眠る前などに、ふとこんな想像に囚われることがある。
 私は絵を見る少女の絵を見ている。彼女が見つめる先にも絵を見る少女の絵。その絵の中にも絵を見る少女の絵。
 そして私は振り返らなくても知っている。自分もまた絵の中の人間であるということ。私の後ろにも大きな額があって、その外から私を見る少女もまた、私が目の前の絵にするように、隅々まで私を見て批評する。
 それはある種の劣等感であった。私は常により大きな存在の下で、偉大なる歴史がいとも簡単に飛び越した小石に躓いている。歴史?いや、私を見ているのは、それすら超えた大きなものかもしれなかった。
 それは劣等感と名付けてもいい筈だった。しかし彼女はこの想像に、少なからぬ興奮を覚える。心ゆくまで見ればいい。嘲ればいい。私には、これ以外の生き方はできない。ただ見られることで、彼女は少しだけ謙虚になれた。
 眠れぬ夜の、奇妙なお話。

これにて、おしまい。






あとがき
 なんか、題は知らんけど、ある男の一生が実はぜーんぶ映画でしたー!全世界の人間はキャストで、観客の為に主人公の家族やったり恋人やったり同僚やったりしてたのでしたー!的な映画があるそうですね。恋愛小説家、というお題で、真っ先に思いついたのはそれだったんですけど、私はどうもそういう意地悪いこと苦手みたいです。もっとぐりぐり恭平のこと虐める予定、だったんですが。
 言いそびれましたが蹴倒したバケツの中の花はフリージアです。
 コーラルレッドのスプレーバラは私のお気に入りです。うちのばあちゃんにめっちゃ似合うと思っています。
 恋愛小説を書いたのは初めてなので、生ぬるい眼で見守ってください。恋愛要素ゼロで恋愛小説家の小説を書こうと奮闘したけれど、そんな離れ業はちょっと私には無理があったっぽいですね。書いたら案外楽しかった。楽しかった、が、読み返すのが恥ずかしい。
 というわけで、ここまで読んでくださったあなたは相当なモノズキか、天使のような優しい心をもった方でしょう!本当に、ありがとうございます!!


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