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深夜の新宿レイトショーは誰も見なさそうなやつがいい

今日は12月1日、映画の日。私はあまり映画館で映画を見る習慣はないが、毎月一日はファーストデーなのでたまに映画を見に行ったりする。

都会に来て驚くのは、レイトショーが24時を超えてもあること。27時開始というものもあって、上映が終わる頃には空が白みだしているという感じがなんとも好きだ。友だちや恋人を連れて行きたいというよりはひとりで行くのがいいだろう。

とにかく深夜のレイトショーを見る時は”自分が”「誰も見ないだろう」と思えるものがいい。自分の価値観を変えてくれるそんな一画に出会える一夜にするのだ。

私が東京ではじめて深夜のレイトショーを見たのは新宿バルト9だった。
誰もいなさそうな27時上映の枠に誰も見なさそうな映画があったのに注目した。その名も「さいはてにて〜優しい香りと待ちながら〜」

石川県の能登を舞台とした映画だった。都会に疲れた風の女性「岬」が、幼いころ暮らし両親の離婚を期に母に連れられて離れた能登と父親の優しさを思い出し。能登のとある漁村の浜辺にある船小屋をひきとり珈琲屋を開いた。そこでずっと行方不明の父の面影をさがしながら待っているという話だった。

能登が舞台であってまさに最果ての地という感じだった。大学時代に金沢に住んでいてよく能登にもいったものだったのでよくその雰囲気を知っている。海のきわギリギリに小屋を建てているところが日本海らしい雰囲気だった。ここがカシオピア座の隣のような”さいはて”の地というのはいかにもと思えた。

不毛な過去への執着を描くようなそういう現実感のないひとりよがりな孤独の世界観を見事に描いた作品に感じた。その映画の雰囲気がちょうどこのレイトショーの深夜の雰囲気にマッチしておそろしいほどの臨場感を生み出した。

私以外にこの映画の席についたのは3人のおじさんたちだった。みな映画を見るというよりは首をぐてっと垂れ下げて小さないびきをかいて寝ていた。飲んだ帰りか、夜勤の帰りか、ジャンバー姿にリュックをさげたいでたちで、いずれも始発待ちの様相だった。

このスクリーンから流れる映像を私は責任を負わされひとりで浴びせられる気持ちで見た。

登場人物の3人の女性の演技力の差がありすぎて、見れば見るほど耐え切れないほどの不格好な映画だった。そのアクの強さと映像やストーリーの淡白さがたまらないく愛おしかった。

映画の静かな息づかいと後ろの席の静かないびきがサラウンドして暗闇の空間が呼吸しているかのように思えた。

珈琲屋の名前は「ヨダカ珈琲」
主人公の岬が自分にそっくりだからとつけた名前だ。
「よだかは、実にみにくい鳥です」宮沢賢治のよだかの星のはじまりはこうだ。
岬の能登を離れてからの過去は語られず空白ながらなにか伝わってくるものがある。

珈琲小屋の岬と寂れた休業中の民宿に住んでいる絵里子とその子供たちをメインに話が進んでいく。

なぜか男性は登場しても人物というよりは象徴として描かれぼんやりとしている。騙す者。危害を加える者。恐怖としての存在。そして聞き伝えられる父の姿も幻のように淡い。

レイプ未遂事件で岬に襲いかかってきた民宿に居座っている男(絵里子の恋人)は父と同じく小屋でギターを抱えて座って待っていたが、酷く暗くて恐ろしい姿をしていた。あんなに待ちわびていた父だが、その裏に岬の父親を選ばなかった罪悪感が浮かび上がってきたかのようだ。

それと裏腹に岬と絵里子は和解し民宿も復活の兆しを見せる。

他人から知らされる父の姿の鱗片。それはまさに清らかで優しくていい男という感じ...
父がひきこもりの青年にギターを教えたエピソードをきいて、その青年のギターを弾くその姿に父親が重なって見えたのかもしれない。

生きている可能性は低い、でも生きていることを微かに願って待っているかのような岬に、父親の遺骨らしきものが海底よりあがったと知らされる。

珈琲屋を閉め能登を出て行く岬。
揺れに揺れた父の影はついに実態として残酷にも冷たい海の底から現れたのだった。

まるで最果ての海の側の廃墟小屋で珈琲の香りを楽しむように、幻を忘れないでいつまでも愉しみたいと思うことがある。そんなことを感じさせてくれる空気感のあふれる映画だった。

シアターを出ると、もう新宿は朝を迎えるところだった。誰もいない街をタクシーや清掃車が走り抜けていく。

まさに”さいはて”からもどってきたかのような感覚だ。
始発で家に帰る前に少しコーヒーを飲みたくなった。

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