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育児書も心療内科も参考にならない

写真は、まだゆずラボを立ち上げる前のものです。カフェの定休日に場所をお借りして、週1回不登校の子供たち同士で遊んだり勉強したりしていました。参加費は300円×5人。場所代は5000円。開催すればするほど赤字で笑えました。この頃は、Deko-Boko算数っていう名前でやっていました。


小4の9月。学校に行けなくなったその日、なぜ学校に行くことができないのか、本人を含め誰にもわかりませんでした。学校まであとこの横断歩道を渡って50mほど進むだけ。けれど、目の前の横断歩道が渡れない…。

まさか自分の子が不登校になるなんて!?とは実は思ってなくて、小5くらいから不登校になるかもしれないという予感はありました。それより少し早く不登校になってしまいましたが・・・。

小さい頃から「自分」を持っていて、知的欲求が強く、またこだわりも強くて育てにくい子でした。育児書が全く参考にならず、調べに調べて行き着いた先が「ギフテッド 」でした。HSCはその後しばらくして知りました。情報源はネットからでした。当時はまだ、メディアに取り上げられることもなく、海外からの情報ばかりでした。ただ、私が教育熱心だったことが幸いして、幼児教育をせっせとやっていたことで、娘の知的欲求は自然と満たされていました。幼児教室の体験に行っても合わなかったので、通ったりはせず、自宅でできる範囲内でやっていました。

海外からの情報を参考に、ギフテッド児向けの育児方法に方向転換したことで、医療機関にかかることなく、なんとなく療育の真似事をしながら、まずまず平和に過ごしていました。精神年齢がまわりと2才ほど違う感じで、どうしても浮いてしまっていました。それをロールプレイングをしながら、どうすれば相手に嫌な気持ちをさせないか、を一緒に考えるようにしていました。これはとても効果がありました。また、冗談が通じないので、冗談だと理解する練習もたくさんしました。「今からママは冗談しか言いません!」と宣言し、ひたすら冗談ばかり言うんです。1年くらい続けた気がします。今では、私のボケに突っ込むことができるくらいになりましたが、冗談の判別には迷うことがたくさんあるようです。そうやって、療育(?)の真似事を続けていましたが、小2のときの出来事がきっかけで、私は区の教育センターにヘルプを出しました。自分で思うよりも、理解されない育児への孤独感や、先の見えなさに心がズタズタになっていました。

不登校の予兆は、後々考えるとなかったわけではありません。けれど、登校渋りがあったわけではなく、学校そのものが嫌と思わせるようなものはありませんでした。ただ、母親に対する依存度があがっているのは確かでした。けれど、それが不登校とは結びつきませんでした。「小5くらいで不登校になりそう」と思ってはいたけれど、それは高学年女子によくある「自分たちと違うものは排除する」ようなことがきっかけで学校生活が嫌になり、不登校に発展するだろうと考えていました。なので、今このタイミングで!?という感じでした。

娘は特定の友達がおらず、どのグループともいい距離感を保っていたようです。(話が合う子がそもそもいなかったらしい。説明するのが面倒になり、あまり話さなくなったそう。)。嫌なことをされても言い返すこともでき、先生に相談することもできていました。小さないじめくらいはあったかもしれませんが、問題になるようなトラブルに巻き込まれることはありませんでした。勉強面も全く問題なく、いわゆる勉強も運動もできる、リーダー的ポジションにいたようです。なので、先生たちも娘の不登校には目から鱗で、最初は一時的なもので深刻化しないだろうと思っていたそうです。けれど、娘はいつも「自分は理解されない」と感じながら学校生活を送っていたのだと思います。

娘を限界においやっただろう出来事は、おそらくこれ。娘はいつもママと一緒を好みました。なので、私が一人になる時間はほぼなし。それに疲れてしまって、「お風呂は別々に入ろう」って提案したんです。お風呂くらい一人で自由に入りたい。仕事も自分のペースで出来る職種ではなかったこともあり、まわりのペースに合わせながら仕事して、家では娘のペースに合わせて生活して・・・。それに私が疲れてしまったんです。そこで、一人でできることを増やしてほしいとお願いしました。娘は努力してくれました。

ところが、それは娘にとってハードルが高すぎることでした。「もう頑張れない!!」と泣き叫びながら訴えてきました。このことがあってすぐ、学校に行けなくなりました。

母子分離不安というそうです。この日から、お風呂はまた一緒に入るようになり、寝るときも、半分私にかぶさるようにして、手をがっちりつないで寝るようになりました。そして、私の顔が必ず娘のほうを向いていないとダメになってしまいました。トイレも一人で行けない、もちろん私のトイレにもついてきます。家の中でも一人でいられないようになりました。必ず同じ部屋にいないとダメです。これが本当にしんどかったです。

お風呂の件はただのきっかけにすぎないと思っています。もともと、ぎりぎりのところで娘の精神状態は保たれていたのでしょう。心のダムは決壊間近だった。「お風呂は一人で入って」の一言が、とどめを刺しただけ。

娘の精神状態がギリギリだったということが、臨床心理士さんとのカウンセリングで明らかになります。娘のことを理解していたつもりでしたが、全然ダメでした。私の想像をはるかにこえた苦しみを抱えていました。娘自身も気づいていない部分がたくさんありました。

「お風呂に一人で入って」事件のころは、ちょうど私が心療内科にかかり始めた時期です。食事も睡眠もとれなくなり、さらに外出先で勝手に涙がでてくるなど、自分でも精神面がまずいと自覚しました。すぐに予約をとり受診しました。けれど、この心療内科もかなりしんどくて、結局はお薬を処方してもらうだけになりました。子育てのことはあまり話さないでおこう、そういう気持ちになりました。心療内科にいくのにも病む、みたいな悪循環。(その後、半年ほどして医師側に変化がみられ、関係性は改善します。)


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