小説は何からできているか?

小説は何からできているか? いろんな切り口で分析してみました。

ある解説書で小説は『描写』『説明』『台詞』の組み合わせで出来ている、と言っていました。
これらがバランスよく書かれているのが優れた小説だ、とも言われていました。

では描写とは何か? 
『今起こっていること、感じること、思っていること、を表現すること』
説明とは何か? 
『五感では知覚できないこと、を表現すること』
台詞とは何か? 
『登場人物が発した言葉』
だと私は、定義しています。
(あくまで私の定義です)

『机の上に青いリンゴがある』
これ、描写です。
『このリンゴは、昨日、母が小包で送ってくれたものだ』
これ、説明です。
『お母さん……』
これ、台詞です。

『台詞』の説明は要らないと思いますが、『描写』と『説明』はどう違うのか?
若干の『説明』が必要です。
描写とは、五感で感知できたものの表現です。
『机の上に青いリンゴがある』
これ、見えているものを書いています。
匂いがするなら、それも書けます。
それも描写です。
触ったなら、それも表現できます。
これも描写のうちです。
でも、このリンゴが『昨日、母が小包で送ってくれたもの』であることは『説明』しないと分からないのです。

今起こっている現象からは知覚できないものを、伝えなくてはならないとき『説明』が必要なのです。
見ても、触っても、食べても、それが『昨日、母親が送って寄こしたリンゴ』だとは分からないのです。

『説明』とは『描写』を補うためにあるのです。
それが『説明』の役目だと、私は定義付けています。

小説は『描写』『説明』『台詞』から出来ていると言いました。
言われてみれば、“外見上”はそう見えます。
でも、それは“見た目”であって、本質的な構造ではないと思います。
では、この構造分かったからといって、小説が書けるでしょうか?

ここで、描写を書いてください。
次は、説明をしてください。
ここに、会話を入れてください。
それを繰り返してみてください。
それで小説が書けます。

そう教えられて小説が書けるでしょうか?
書けないと思います。
今、言われたことは表現上の形式であって
「これはバットです」
「これはグローブです」
「これはボールです」
「分かりましたね? じゃあ、野球をしましょう」
と言われていると同じことです。

バットとグローブとボールの区別がついたからと言って、野球が出来るわけはありません。
それらを使って何をしたらいいのでしょう?
野球というゲームの意味から理解しなければ、野球は出来ません。

では“小説”とは何か?
ある本にこう書いてありました。

小説は「いつ、どこで、誰が、なにをして、どうなった」かの、一連の動きを書いたものだ、と。
つまり“変化”を書くのが“小説”なのです。
私はそれを信じました。

似たような文章で書かれたものに“エッセイ”があります。
でもエッセイは違います。
エッセイの文章中で表現されたものが、何一つ変化しなくてもエッセイは成り立ちます。

作者が知覚したものを、作者がどう思ったかを書くのがエッセイですから。

『今朝、ベランダで花がしおれてるのを見つけた。私は、そこではたと気づいたのです。』 

あとは作者の思想が続いて、終わります。
思想の表現手段、それがエッセイです。

エッセイと小説の違いはそこにあるのです。
だから“変化”を読ませることこそが小説です。
小説は“変化”もしくは“動き”を中心に書いていかなければならない。
私は“動き”の観点から、小説の書き方を分析してみようと思い立ちました。

小説は、すべて“動き”に関係します。
その“動き”の面白さを読者に味わってもらうのです。
小説を表現する形式として『描写』『説明』『台詞』があると言いました。
それらは道具と言ってもいいでしょう。
でも、道具の意味を知ることは必要ですが、小説を書く上ではあまりその“区別”は必要ないと私は考えます。

実は『台詞』の中で『描写』もできます。

「君、大きな目だね」

これ、台詞で相手の目を描写しています。
『台詞』の中で『説明』もできます。

「この壺はね、二百年前に作られたものなんだ」

これ、台詞中で、知覚では分からないことを『説明』しています。
また『描写』の中に『説明』が含まれる場合もあります。

『この二百年前に作られたという壺は、朝日を受けて輝いていた』

一文に描写と説明が入り混じっています。
これでは形式上の区別すら危うくなってきました。
私は小説を成すという、これらの分類の仕方を捨てることにしました。

私は“動き”を中心に小説を考えてみました。
動きを軸として、小説の文章が、どんな“役目”を持って書かれているかを探ろうと思います。


タケシは殴った。
マモルはそれを避けた。
タケシはもう一度振りかぶった。
その前にマモルが殴った。


これ、動きの描写だけです。
読めなくはないですが、この調子で小説がすべて書かれたなら、稚拙な感じを受けます。
ここに『説明』を加えます。

タケシは拳を握り、マモルの顔めがけて突き出した。
渾身の力でだ。
しかし、マモルはそれを寸前で避けた。
タケシはもう一度マモルを殴ろうと拳を振り上げた。
その時だった。
先にマモルが殴ってきた。


少し描写に手を加えましたが『渾身の力でだ』というのは『説明』です。
見た目ではわからない情報です。
どうでしょう?
なにか、動作に深みというか厚みが出てきたと思います。
もちろん『渾身の力で』といのを『タケシは拳を握り、渾身の力でマモルの顔めがけて……』とも書けます。
これは、作者の好みになります。
でも『説明』を加えることで、描写がレベルアップします。
あともう一つ、あるものを加えるともっと小説らしくなります。

タケシは拳を握り、マモルの顔めがけて突き出した。
渾身の力でだ。
しかし、マモルはそれを寸前で避けた。
「ちくしょう!」
タケシはもう一度マモルを殴ろうと拳を振り上げた。
その時だった。
先にマモルが殴ってきた。


「ちくしょう!」
という台詞を加えました。
でも、勘違いしないでください。
台詞を入れると、小説らしくなると言いたかったのではありません。
タケシが「ちくしょう!」と口に出すほど激情している状態であると、伝えたかったのです。
もしこれが「ちくしょう!」ではなくて「けっ、お前、やるな」だったら、タケシもマモルもそれなりの使い手で、タケシがそれを余裕を持って楽しんでいると想像できます。

どうでしょう?
動作を行っている人物の心理状態が垣間見れると、場面の雰囲気が伝わります。
今は『台詞』を使って感情を表現しましたが、『描写』でもできます。


タケシは拳を握り、マモルの顔めがけて突き出した。
渾身の力でだ。
しかし、マモルはそれを寸前で避けた。
タケシはそれを見て、にやりと笑った。
タケシはもう一度マモルを殴ろうと拳を振り上げた。
その時だった。
先にマモルが殴ってきた。


今度は「にやりと笑った」と、タケシの表情を描写することで、タケシの心理状態を表そうとしました。
台詞、しぐさ、表情等で、動作人物の心理状態を小刻みに伝えることができます。
それが分かると物語に入り込みやすくなります。
そして、ここぞという場面では、


タケシは拳を握り、マモルの顔めがけて突き出した。
渾身の力でだ。
しかし、マモルはそれを寸前で避けた。
タケシはそれを見て、にやりと笑った。
俺のパンチをかわすとは……。
こいつは少しは楽しめるかもしれない……。
タケシはもう一度マモルを殴ろうと拳を振り上げた。
その時だった。
先にマモルが殴ってきた。


タケシの“内なる声”を追加しました。
どうでしょう?
もっと小説らしくなったと思います。
登場人物の考え、感情、心理がストレートに入ると、リアル感、臨場感が増し、読者が登場人物に感情移入できるようになります。


今私が書いたものは『描写』『説明』『台詞』では区分できないものです。
でも、私はこれで“小説”が成り立つことを確信しました。
私が書いた文章を、動きを軸に観ると、どうゆう役割をもっているのでしょう?

私は小説を構成する文章を、動きを軸として、四つの役割に分類しました。

1、動きの描写
2、その動きの説明
3、その動きの結果
4、その結果を受けての心情

乱暴な話、小説はこの四つの要素の繰り返しだけで書けます。
もちろん、序盤は、場面の設定等を説明しなければなりませんが、その時は静的な情景描写として別に書いてもいいですが、この四つの要素の中に取り込むことも可能です。


タケシは朝日が差す道を、駅へと急いだ。
こんなに走ったのは、高校で部活を辞めてから初めてだ。
もうあれから五年も経つ。
腕時計をもう一度見た。
針は7時30分を指していた。
タカシは慌てて走るスピードを上げた。
なんてこった! 出社初日から遅刻なんて。


という風に、動きの中に設状況定を紛れ込ませることが出来ます。
無理は、ないと思います。
逆にその方が、読者は自然と物語に入っていけるでしょう。

好みの問題ですが、私は設定をそのまま説明することに疑問を感じます。


時刻は朝の7時30分。
タカシは今年22歳だ。
大学を卒業して就職した会社への、今日が初出勤だった。
しかし、タカシは寝坊したのだ。


これは、無機質で押しつけがましく感じます。
でも、たまに面倒臭くてやってしまいますが(笑)

話しがそれましたが、この四つの要素の発見に要素にたどり着いたのは、他ならぬ、自分の書いた小説を分析してみたからです。
私は小説を、その場その場のインスピレーションで書いていると言いました。
でも、人には“癖”があるのです。
私は、“感覚的”に書いてる自分の小説が、自分の知らない何らかの癖、ルールに則って書かれていると推測してみたのです。
ですから、皆がこのルールにあてはまるわけではないことを、予めご了承ください。

私は短文派です。
一文を短く簡潔に書くように心がけています。
一文にあまり多くを詰め込まない傾向にあります。
一文一意味。
それが良いことなのか、悪いことなのか分かりません。
多分これも好みの問題です。
でも、そうだからこそ、文ごとに分類できたのかもしれません。
いままで、いろんな作家の文章を分解、分析して、何らかのルールがあるのではないかと探ってきましたが、未だ見つけることはできませんでした。
だったら自分のは?
と、分析してみたのです。

自分が無意識で書いている作品を一度私のように分析してみると、なにか法則性のようなものが見えてくるかもしれません。
その法則性がわかれば、それを逆手にとって、『型』を作ると、無意識に頼らず、もっとスムーズに書けるかもしれません。


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