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生きる意味なんてなくても、生きたい理由はあった

『100日後に死ぬワニ』が、死んでしまった。寂しいなぁ。

こんな機会に改めて「終わり」を意識してみると、「死にたくない」とは思わないけれど、「生きていたい」とは思う自分を発見して、なんだか少し嬉しくなってしまった。「生きたい」と思えることは、当たり前ではない。


会社勤め時代、仕事は面白かったし、一緒に働いている人はいい人ばかりだったし、飲みに行く時間は至福だったし、たまの音楽の本番はぞくっとするほど楽しかった。

それでも、いつも「死にたい」と唱えながら生きていた。自分のキャパをオーバーしているのに無自覚で、人を頼るのも下手でいろいろ背負い込んでは失敗していた。自分が誰かの役に立てているのか不安で、ダメな自分はここに居ていいのかわからなかった。誰かと比べて何かを成さないとと焦っては、出来ないならこの世界が終わってくれたらいいのになと思ったりもした。

だから、「生きる意味」をいつも考えていた。何か意味があるなら、そのために生きることが出来るけれど、それがないなら、生きていてもしょうがないんじゃないかなぁ、なんて思っていた。


会社を辞めて環境が変わると、「生きる意味」を考える機会は激減した。その代わりに、小さな小さな「やりたいこと」が見えるようになってきた。それをひとつひとつ叶えていくと、毎日はどんどん楽しくなっていった。

「駅前の花屋さんでお花買って飾りたい」「美味しい食パン買って朝ごはんにしたい」「さくらんぼ食べたい」「ホテルのアフタヌーンティーしたい」「まーちゃん(推し)の凱旋公演のために北海道に行きたい」「あの子と飲み会したい」「平日の夜にカルテットの演奏会聴きたい」「個性心理学の講座受けたい」「グラレコ学びたい」

大義なんてないし、役に立つこともほとんどないし、誰かに期待されているわけでもないことばかりだ。そんなたいしたこともない、しょうもないことが、実は「生きたい」と思える理由だったなんて。


本当は、死にたくなんかなかったんだ。本当は、能動的に「生きたい」と思えるようになりたかった。それが叶わないから、「生きる意味」を探したし、誰かに「ここにいていいよ」と許可してほしがった。

けれど結局、生きるのに意味なんてなくて、誰がなんと言おうと自分の人生を生きるのは自分だった。「誰かと生きたい」「役に立ちたい」気持ちを扱い間違って自分を押しつぶして、生きるのを難しくしなくてもいい。

そうわかってしまったら、今は「生きたい理由」がたくさんある。

カンジャンケジャン食べたいし、沖縄の海を見たいし、ニューヨークでニューヨーカーぶってみたいし、プラハのホールに演奏者として立ちたいし、第九のティンパニ叩きたいし、まーちゃんの卒業は見届けたいし(もちろんまだまだ現役で見たい)、貸スタジオ建てて運営したいし、お花見したいし、夏はキャンプに行きたい。

もっといろんな景色がみたいし、いろんな人に会ってみたい。

どこまで生きてもきっとその都度、「生きたい理由」が生まれる。だから「あれをやるまで死ねない!」なんて意欲はないかもしれないけれど、「もっと生きていたいなぁ」とは思う。

毎日楽しくてハッピー幸せ、だけでなく、重くてしんどくて辛くて悲しくても。生きる意味なんてなくても。もうちょっと、生きていたいなぁ。

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