無知の知についての知の無知
訪頂有難御座。
お久しぶりです。しばらく、書く気が起こらない時期ってありますよね。フォローしている人たちの記事をぼんやり見ながらも、ああなにか自分も書きたいことがあればいいのに、と思っていました。そういうときは決まって人生に飽きているときです。楽しいことがない、新しいことがない、価値あることがない。なんだかもうすべての言葉と映像に既視感があるような状態。だから、書きたいこともなくなってしまう。
今日は、無知の知についての知の無知、というお話をします。まず、無知の知というのは、読んで字の如く「知らないということについて知っている」という意味でソクラテスが話したとされます(初出はピタゴラスという説もある)。ある日、ソクラテスは当時の有名なソフィストに「貴方は知ったフリをしているだけだ」ということを説得するよう努めた結果、本人やその取り巻きたちから憎悪を買い、その帰り道で次のように独り考えました。
知らないことを知っているフリをする人間よりも、ちゃんと知らないということを認めて、知ろうと欲する人間のほうが高潔であることから、無知の知は哲学(知恵を愛する)者の立場として尊重されることになりました。
私自身もこの無知の知を大事にしてきたつもりでした。なんと素晴らしい考えかと、何度も新鮮な感動を繰り返してきたつもりでした。けれど、今日気づいたのです。私は無知の知の実践には、まるで至っていないし、まして無知を恥ずかしがっている自分さえいるということに!
無知は誇らしいものです。なぜなら自ら知らないことを自覚して初めて、そのことを知ろうと人は欲望するのですから。それなのに、日本人は無知を恥じるよう教育される。私もその一人だったと自覚しています。できないと恥ずかしい、できないと笑われる、できないと将来いい仕事に就けない。
できないと、わかっていないと、答えられないと・・・
そういう強迫観念が、「わからない」を悪だと勘違いさせてきたのだと思います。優秀な子とレッテルを貼られた子たちほど、この傾向は強いのではないかと思います。優秀なお父さんの子なんだから、うちは弁護士の家系なんだから、有名な予備校に通わせているんだから。そういう期待が、子どもたちに「わからない」を言えないよう歪めてしまう。上澄みの知識で点を取って、わかったフリを完結させる努力をさせてしまう。少なくとも私はそうだった。
そしてその障害は、将来に響いてくる。先生に質問ができなくなり、酷い場合は他人とのコミュニケーションを避けることにもなりかねない。わからないことの原因を自分の怠慢のせいにしてしまう。もう一度言いましょう。無知は素晴らしいものです。それを恥じていては世界が開いていかない。息苦しい閉じた世界に住まうことになる。
私は無知の知について知っておきながら、そんな自分の性を突き通していました。自分は質問を恥ずかしがる人間なのだと、仕方ないことなのだと言い聞かせてきました。こんなに滑稽なことはありません。無知の知が教えてくれることは、無知は本来素晴らしいものであり、それを恥じるは愚かであり、むしろそれは誇るべきことだということです。無知の知についての知の無知。これは私に起こっていることなのでした。無知の知というよく知られた言葉の意味さえ、私は正しく知っていなかった。そしてきっと、まだこの言葉の深淵は解き明かせていないのだと信じています。これまでよりも正しい理解ができたまでのことなのです。
明日は、教授との面談があります。自分に比べて何倍も哲学の知識があるように思える教授です。私の考えることはすべてお見通しなのだとすら思えるような人です。そんな人の前で、無知を恥ずかしがることは、もうそれこそ恥ずかしいことだと言えましょう。またいい子ぶって、読んだ本のわかった箇所だけを滔々と話して、わからない部分を覆い隠すことは出来る。だけど、そのわからない部分を、無知を、あえて曝け出して、私の分かっていないところを分かってもらって、その上でそれを分かるための言葉をもらう方が絶対によいことだと、私は信じて疑いません。
最後に、noteを書くことは、ある種の言語化です。ところで、「わかった」という感覚は「言葉が腑に落ちる」という感覚に近い。そしてその言葉を作るのが言語化という行為です。そうすると、言語化(note)への根源的欲求は「知りたい(分かりたい)」という欲求なのではないでしょうか。そして知への欲求は、上で見たように無知の自覚に源があります。noteが書けないときは——これは読み返した時の自分へ向けた戒めの言葉でもあるが——自分の無自覚な知ったかぶりを疑ってみるとよいのではないでしょうか。
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