「いい加減さ」の楽しさと憧れ(ポール・ニューマンのウィンク)

結構「真面目だねぇ」、「真面目だからね」と言われる。

どっちも、「だから仕方ないな」的なニュアンスでだいたい出てくるときは、「融通がきかない」とか、「ユーモアがない」とか、「多目に見てやる優しさが足りない」。そう言う物差しで測ったみたいな四角四面な私の性格を、
けど「しかたないね、そこ、良いところでもあるし」って言う苦笑交じりで飲んでくださるお言葉である。

そして言われる本人がまた殊勝に、「すまねぇな」と毎回恐縮しつつも、ここはなくて七癖の一つで直す気がありゃしません。

「なんか面白いことを言った方が良いですかね?」って言ってみるんですけど、「やめとけ」で鼻で笑われて終わるのは、心中たいへんな無念であります。 

「真面目だねぇ」と「面白いことを言い始める」は両立しない。させるには少なくとも、努力が必要で、例えば左利きの人が右手でも文字を書けるようになる位にはたいへんなチャレンジで、しかも出来たとしても多分、「やっぱ左利き生活で良いか。身の丈だし」と本来の自分の心地よさに回帰しそうな気もします。

しかし、そうして見ると、「お前ってちゃらんぽらんだなぁ」とも思うわけです。
「真面目だな」って苦笑されて、「へへ、サーセン」と緩く笑って否定せず、とりあえずその場は放棄して、気にしつつもちっともユーモアを身につける気がないですからね。

本当に真面目だったら「ここで俺も一発ギャグを覚えてみるか!」と、駆け出し芸人みたいになんか色々真剣に工夫して声を出してみたり、生活っぷりを語れる話題を捻ろうとして話題の乏しさに憔悴したり、苦し紛れに一人ノリツッコミを覚えてみたり、最後は怖い話を始めてみたり、四苦八苦するはずですからね。

でも、だからこそ、本当に「いい加減」な人って憧れます。

そもそもいい加減って、慣用句で「仕事がテキトーな人」「信憑性がないやつ」みたいなニュアンスで使われてますが、文字通り読んだら、「良い」「加減」なんで、つまり適切な力配分が出来るって言う真逆の言葉になります。

いい加減さと言うのは、根拠のない前向きさと、なにも考えずに上手く最初の一歩を踏み出す気負いなさ。
そして、相手にてきとーに合わせて、なんとなくうまく行く。
失敗したら「お前、いい加減な奴だからなぁ」と小言を言われる。「どーすんだ」といわれて、なんとなく対処する。     

そう言う、生き方に、憧れちゃうんですよね。

後先を考えずに、そのときの気分に任せて、フラッとやってみたり、てきとーに笑ったり、てきとーにこなしたり、てきとーに言ったり。

四角四面の人間が、糞真面目に四隅を整えてる間、丸く済ませて楽しめる、そう言ういい加減さにいつまでも憧れます。

例えば、映画「スティング」。ウィンクするポール・ニューマン以上にチャーミングな男の笑顔を私は他に知りません。

あの映画は綺麗さっぱり上手に相手を丸め込んで騙して、一番大切な「お金」を巻き上げていく優雅な映画です。

「いやいやあの映画、いい加減な映画じゃないだろ?あれはおしゃれにバチッと決めた完全犯罪の小気味良い、大胆不敵な映画じゃないか」
って言う指摘はごもっともなんですけど。

そもそも、「完全犯罪で素っ裸に全財産、騙しとってやろう」って言う辺りが実に、「良い加減」だなって思うんです。

映画のなかでは繰り返し、主人公たちが自分をいかにダメな奴か、てきとーな奴か、いい加減な奴か、騙されてるカモに見える奴か、あてずっぽうな奴か、見せつけて仕込みをいれていきます。

最初は疑ってた悪党も、見下して、軽蔑して、しかし悔しがって、のめり込み、そして自分を見失い…。勝てるとニヤリと笑ったところで絶望に陥り、泡を食って叫ぼうとしたら、そのチャンスすら与えられずに騙されて「俺のお金が!」と言いつつ撤収せざるを得なくなります。

悪党さんが騙されたのは、主人公たちの繰り出すたくみな「いい加減さ」にでした。

綿密に練られたシナリオがあって、プロの詐欺師の皆が真剣に自分達の役割を命がけで演じてるんですけど、彼らみんな、演じる姿に、そして途方もない詐欺を真剣に働くいい加減さに「ああ、いい加減って優雅だな」って思うんですよね。

極悪人の悪党の横に座って、笑顔で競馬の話を持ち掛ける。ただの賭けの好きなおじさんを装うセンス。

上手く上手くどっちが上手く出し抜けるか、常に笑顔で話の帳尻を合わせつつ、最後は映画を観るお客さんまであっと浚っていくセンス。  

茶目っ気。

真面目な私にはとても持ち得ない感覚です。
いい加減な人って、本当に羨ましい。

そう言う、「ああ、そんな風になるなんて」って笑える可能性を秘めた、素敵ないい加減さを私も持ち合わせたい、と思うこの頃です。