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星野源の「光の跡」に「SUN」から受け継がれる死生観を見た

年明けから能登半島を中心とした大きな地震があった。
被災された方々に、少しでも早く必要な助けが届き、一日でも早く復興することをまず最初にお祈りしておきたい。

その上で。
僕は僕の日常を生きるし、日本中、世界中に暮らす人が、各々の意思が尊重されると良いなと思う。被災地に向けて悲しみを手向けるのも、寄付するのも、経済回すのも、普通に暮らすのも、それはそれで全部寄り添う形の違いなのだと僕は思っている。

というわけで、生と死、を少し意識しながら今日のnoteを書いてみたい。

星野源の新譜「光の跡/生命体」がリリースされた。
それに基づく音楽体験については別記事で書いているのでそちらをご覧いただきたいが、
今日、「SUN」を聴いていて、おや、と思った。
それは、SUNの頃から、いやひょっとするとその前から、星野源の中で受け継がれる死生観が、光の跡にもあるなと感じたこと。

人はやがて
消え去るの
すべてを残さずに
綺麗にいなくなり
愛も傷も
海の砂ぬ混ざり
きらきら波間に反射する

星野源「光の跡」

祈り届くなら
安らかな場所にいてよ
僕たちはいつか 終わるから
踊る いま
いま

星野源「SUN」

同じメッセージじゃない?
という訳の分からないクレームをつけたい訳ではもちろんなく、むしろ逆。
およそ8年前の曲に込めたメッセージを、
再度「いま」の感覚でしたためて
全く新しい曲として(メッセージだけでなく音やブックレットやジャケットの意味でも)作れるのが本当に凄いなと。

人はいつか死ぬし、誰かとは必ずお別れが来る。
関係性が悪くなってのお別れはある程度コントロールして避けられるかもしれないが、根本的にはいつか離れ離れになることは避けられない。

マイケル・ジャクソンのことを思って書かれた(詳しくは星野源のエッセイ「いのちの車窓から」を)SUNと、2024年の頭を照らす光の跡は、どこかで確かに繋がっている、と思う。
おそらく、星野源が身近に死を意識したその瞬間から彼の中に流れているであろう、死生観をもって。

僕も気づけば人生も後半戦という年齢になり、より本気度を上げて日々をなるべく丁寧に生きよう、と少しずつ覚悟を決め始めている。
別にどこか体調が悪い訳でもないのだけれど、このままぼんやりと生きていくと、たぶん後悔することになるな、と感じたから。

冒頭の地震のことに話を戻すと、
自分自身に今出来るのは、少しばかりの寄付と、被災地ゆかりの品を選んで買うこと、被災地の声を少し拾い上げること、そして目の前にある自分の生活を全うすることだなと。

出来ることは多くはない。が、出来るだけのことをしよう。頭の片隅に2024年1月1日のことをどこか残しながら生きていく。めぐりめぐって、どこかで被災地のために何か出来たら。

星野源の「SUN」と「光の跡」を聴きながら、そんなことを考えた。

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