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〈深夜テンション〉という仮装/仮想

  我々がタンソンニャット空港に降り立ったのは、既に二二時をまわっていた。高校生だったぼくらは修学旅行ということもあり、騒がしく乗り継ぎの飛行機を待っていた。その待ち時間に、仲間内でやたらと多用されたのが「深夜テンション」ということばであった。

 ぼくらは思春期であったから、素の自分を知ってほしいという欲望を抱え、そしてそれを発散する機会を待っていたのであろう。「おまえ、深夜テンションすぎやろ」だとか「いやほんま、オレ、深夜テンションやわ」だとか、そのような言挙げをすることで、自分が〈深夜テンション〉であると仮装/仮想し、普段の自己から逸脱しようとした。そして、真の自分が現前されているかのごとき錯覚を覚え、その快感に揺蕩っていた。

 今振り返れば、自分たちの素直さに驚愕せずにはいられない。真の自分が存在すると信じていたことももちろんであるが、自己を〈深夜テンション〉であると仮装/仮想するという、いわば自分を覆い隠す行為が、真の自分を現すという思考に潜む矛盾に気が付かなかったことこそが、自らの純粋さを象徴している。

 とはいえ、こうした過去の我々の在り方を馬鹿だと切り捨てるつもりはない。というのも、こうした一連の実践というのは、結果的にアイロニカルな手段となってしまったとはいえ、いかに極限まで自らを偽装せずに生きられるかという問いへの探求だったと思われるからであり、そしてその問いは今の自分も解決できていないどころか、放棄したそれだからである。

 面接では特に自らを偽装せねばならない。アタマではわかっていつつも、腑に落ちないまま今年は過ぎた。自分の意見の方がより良いと思われる場合でも、わざわざその企業の方針ないしは方法に合わせなければならないことについて、まだぼくは理解できないでいる。そうした苦悩が、数年前の〈深夜テンション〉に表象される、空虚でありつつも、自己を不断に追求していた輝かしい記憶を呼び覚ましたのであろう。

 ただ、この問いについては、一生かけても解き明かせる気はしない。それに、そもそも今・ここで悩むべきではないことは十二分にわかっている。だが、だからといってこのはかない闘争を忘却してしまうのも自らの財産を擲ってしまうことに等しいだろう。と、そこまで考え至ったとき、何故かこうした想い出話をここに書き留めようと思われたのである。こうした行為が自らに何らかの影響を及ぼすのか、及ぼさないのか。それすらも判然としないが、何もしないよりはマシだろうというある種の諦念と、それから〈深夜テンション〉によって投稿をしてみた次第である。

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