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20年越しの親孝行。

父が亡くなったのはもう20年も前になる。

忘れもしない。
あれは、朝ごはんを食べ終えて、そろそろ登校しようとしていたときだった。

私の家は自営業だった。
私が深い眠りに就いている頃に両親は起床し、真っ暗闇の中、せっせせっせと仕事に励む。
長年の慣れと言えど、ひと段落するとどっと押し寄せる眠気には勝てず、ソファに横になるのが父の習慣だった。

つかの間の休息。
単なるひと休み。
変わり映えない光景。
何気ない日常の一コマだと、この日もそう思っていた。

それなのに。
突然聞こえた奇妙な音が、これまでの生活を一変させることになる。

いつものいびきかなと、直後は思った。
けれど、何かが変だ。
パソコンが激しく誤作動を起こしたような。
直感で、聞きたくないと耳を塞ぎたくなるような。
脳が、「嫌だ」と言っていた。

私だけじゃない、母もそう感じたのだろう。
「お父さん?」と話しかけながら、様子を見に近づいた。
でも、次の瞬間、顔色が変わった。

「お父さん!お父さん!」

何事?そう顔に書いていたのだろう。
そんな私に母はこう言った。

「息してない」

口を開けたまま、父は固まっていた。
揺さぶっても動かず、腕がだらんとソファから落ちていた。

すぐに救急車を呼んだ。
そして、母は乗り込む。

私はなにがなんだかわかっていなかった。
制服のまま、誰かにつれられて、気づいたら小学6年生の弟と一緒に病院にいた。

長椅子に座るよう促されたけれど、黙って腰かける気にはなれなかった。
一体なにが起こっているのか。
理解できる年齢なのに、頭はそれを拒否していた気がする。
心臓はドクドクと激しい音を立てていた。

大丈夫。大丈夫じゃない。
どちらの感情が強かったのか。

今となっては確かめようのないことだけど、でも、もしかしたら、「大丈夫」と強く強く、もっと強く、願っていたのなら。
父は助かっていたかもしれない。

救急搬送されて2時間足らず。
父は帰らぬ人となった。
死因は心筋梗塞。中学2年の秋のことだった。

突然訪れた別れを、きっと、すぐになんて受け入れられないまま。
もう二度と話すことのできない父の顔を見て、私はこれが現実かと疑いながら。
泣くよりも先に、重く黒い後悔に襲われていた。

死別には必ずと言っていいほど、後悔がつきまとう。
後悔のない人生なんてありえなくて、でもそれが自分に対してならやり直すこともできるけれど、それがこの世にもういない人間が相手なら。
その後悔は自分が死ぬまで自分の中に居座り続ける。

あの頃の私は14歳で、少なからず、反抗期だった。
「一緒に洗濯しないで!」と言ったことはなかったけれど、なんとなく、娘として父という存在を敬遠していた感は否めない。

その反抗期はいずれ終わりを迎えていただろう。大人になるにつれて、親という存在の有難さに気づき、親孝行しようという気持ちになっていたと思う。

だけど、私にはそんな日は来ない。

「もっと、やさしくすればよかった」


私は、親孝行の機会を永遠に失ってしまったのだ。

バカだ。バカだけど。
あの頃は、こんなに早くいなくなるなんて思わなかったから。
タイムリミットを知っていたなら。
私はもっともっと、父にやさしく接していた。

卵焼きをつくっていたとき、自分にもつくってと言われて「めんどくさい」といって拒否したりしなかった。
家族でスーパーに出かけたときも、隣を歩くのが恥ずかしいからって、わざと別行動したりしなかった。

母は、「あなたが生まれてきたことが親孝行だから」と言った。
言いたいことはわかる。
私を慰めてくれようとしたのだろう。
でも、きれいごとだと思ってしまった。
だってそんなの、後づけでしょ。

父が亡くなってからも、自営業を続け、一人で私と弟を育ててくれた母。
母の弱音は聞いたことがなく、感謝の気持ちは休みなく働く母のみに向けられ、父へは後悔だけが降り積もっていった。

結婚式で母が父の写真を持っていたときも、慣習だよねと、どこか冷めた気持ちでいた気がする。
実際、両親への手紙では、私は母に向けての言葉ばかり連ねた。
晴れの日に後悔の念をつらつらと書くなんて馬鹿げてる。
父にはごめんなさいの気持ちしかないのだから。

月日が流れても、色あせない、父への後悔。
気づけば私は2児の母になっていた。

今年、上の子は6歳になる。
数字が大好きで、アナログ時計も4歳の頃には読めるようになり、最近は友達の車のナンバーを覚えることにハマっている。
好奇心がどんどん伸びていけばいいなと、母として願いながら、平和に毎日が過ぎていく。

そんな息子に、私は救われることになる。

ある日、いつものように息子はカレンダーを眺めはじめた。
今日が何日で、何曜日で、習い事まであと何日かなど、声に出していろいろと喋っていた。
自分なりに考え、学んでいる姿を嬉しく思いつつ、私は空っぽになった弁当箱を洗おうとしていた。
そのときだった。


「もうすぐなめなめのじったんの誕生日だね」

手が止まった。
そして、すぐに息子に駆け寄った。
今なんて言ったの。
私は聞き返した。
すると、息子はカレンダーを指差しながら、こう言ったのだ。

「ここ、なめなめのじったんでしょ?なんさいになるの?」

私は信じられない気持ちでいっぱいだった。

なめなめとは、南無阿弥陀仏のこと。
小さな子どもたちをつれてお墓や仏壇の前で手を合わせるとき、わかりやすいように「なめなめ」と形容していた。
そして、ここはどういう場所なのか、どうしてここにいるのか。
詳しく話しても理解できないと思いつつ、簡単には伝えていた。

誰にでもおじいちゃんは二人いること。
でも、ママの方のおじいちゃんはもういないこと。
お空から君たちを見守ってくれてるんだよ。
そんな話をした気がする。
そして、そのときに確か、息子に父の誕生日を聞かれていた。

人の誕生日を覚えることも得意だった息子。家族はもちろんのこと、祖父母、曾祖父母、いとこ、おじ、おば、こども園の友達、先生の分も記憶していた。
そんな息子は、私の父の誕生日もちゃんと覚えていたのだ。

息子はまだ、死というものがなにかわかっていないだろう。
どうして、いないのか。
どうして、会えないのか。
まだ5歳の息子には難しいはずだ。

でも、もう一人のおじいちゃんの存在を、息子はわかってくれていた。
一年に一度、誕生日があることも。

私は涙が出た。涙が止まらなかった。

そして、そのとき思った。

私、親孝行できている。

会いたかったよね。かわいい孫に会いたかったよね。
だって、子どもが大好きだったって、お母さんが言ってた。
寝る前に、「子どもたちを産んでくれてありがとう」って、たまに言うことがあったって。
いろんなところにも連れて行ってくれた。
昔のアルバムを見ると、父も母も弟も、みんな笑顔で写っている。
頬をくっつけて、くしゃっと笑っている。

父は家族を愛していた。
私は父に愛されていた。
そんな私の子どもに、絶対絶対、会いたかったよね。

でも、その願いは叶わない。
どんなに祈ったって、会うことはできない。

それでも、息子を見ていて思った。
たとえ会えなくても、受け継がれていくものがあることを。

ねえ、聞こえてる?
初孫が、誕生日を覚えてたよ。
会ったことはなくても、おじいちゃんの誕生日をちゃんとわかってたよ。

親孝行だって、言ってもいいよね。

「じゃあ、この日になったら、なめなめしに行こうか」

そう言うと、息子は元気よく頷いた。

今日は6月最後の日。

お父さん、67歳、おめでとう。

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