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  小学校の頃からリビングのテーブルが自分の定位置であった。宿題をするときやゲームをするときなど、大抵のことはそこでしていた。一応自分の部屋にも近所の人が学生時代使っていた学習机があるのだが、どうもそこで何かをする気にはなれなかった。リビングのそれの方が盤面が広く、散らかし症の自分にとっては居心地が良かったのかもしれない。そんな慣れ親しんだテーブルで小学生の頃のように読書をしている午前中であった。本のサイズは変わらずとも、それを持つ手やページを捲る速さ、などほとんどのものがそこから大きく変化している。思えば小学生の頃が一番本を読んでいたかもしれない。正確には小説を読んでいたかもしれない。本自体はずっと好きで、常に進行中の本が何冊かある。しかし、それらの多くは技術書であったり、啓発書であったり、実用的なものばかりであり、わかりやすや論理関係を重要事項と捉えているようなものばかりである。この日記を書き始めたきっかけでもあるのだが、もっと多くの言葉に触れなければならないと思いながら、昨年末、久しぶりに小説を読み始めた。おおよそ6年ぶりに読む小説は、新鮮さで溢れていた。誰もが必ず経験しているようなことを誰も使ったことのない単語の組み合わせで表現していく様は、文学が芸術の一つであるということを改めて認識させてくれる。そして人間が通常5種類の感覚期間で捉えていることをただ1つ、視覚から得られる文字だけで表現している様は圧巻であった。例えば、私がPCの前に座っている現在の状況を三人称で見て、その様子をどれだけ言葉で表すことができるであろうか。誰が何をしているという主語述語で伝わることは案外簡単に伝えることができる。実際、「私は日記を書いている。」と記せばエッセンスは伝えられるのではないか。しかし、主語述語だけで書かれた文字の羅列に、人はきっと魅力を感じないだろう。こういった表現は最低限のものだけに削ってしまっては、あまりにも彩りがなさすぎる。確かに白黒のPDFでも重要事項は伝わる。しかし、カラーポスターの方が見ていて楽しい。そのような"あって嬉しいもの"の最先端を見た気がする。どんな気持ちで、どんな姿勢で、どんな表情で、どんな背景で、あらゆる状況にここまで突き詰め続けられるだろうか。さらに言えばすでに私の文章は散らかりまくっている。何を書いているかわからなくなってきた。ここら辺で切りをつけたいと思う。本の書評も時間のある時に書いていければ良いなと思う、今回私が読み、刺さった本のタイトルは「ユートピア」(湊かなえ)。


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