人間関係は「互助」である

前述のように私はけっこうな人間嫌いである。
先日もいろいろあって揉めて心身を摩粍したのだが、その時改めて身に染みたことがある。

それはタイトルにあるように「人間関係は互助である」ということだ。

一般に人は誰かと支えあって生きていくものだ。社会に属している以上、完全に自己完結で生きるということはほぼ不可能であると言ってもよい。ならばなるべく周りの人とは良好な関係性を築いておいたほうが生きやすい、と考えるのが自然だろう。では、その「良好な関係性」というのはどのように構築すればよいのだろうか。それが今回のテーマの「互助」である。

「互助」の意味を群書で引いてみると「互いに助け合うこと」とある。書いて字のごとく、だ(コトバンク、2024/8/2最終問覧)。もう少し社会寄りの意味で言うと「家族・友人・クラブ活動仲間など、個人的な関係性を持つ人間同士が助け合い、それぞれが抱える生活課題をお互いが解決し合う力」ということになる(板橋区公式ホームページ、「自助・互助・共助・公助」からみた地域包括ケアシステム、2024/7/31最終閲覧)。

これらを元にもうすこし個人に近い視点で、ここでは互助を「関わりを持つ人間同士が少しずつ持ち回りで何かを負担し、より快適な居場所を作り上げるための配慮」とする。


たとえばデートの奢る・奢られる論争というものがある。これは「男が奢ってばっかりなのは不公平だ」とか、「女はデートのために化粧や服などの費用を負担しているため奢られるべきである」とかいった言説がやり玉に挙げられる。では、この問題の論点は何だろうか?そう、金銭の負担額である。
いつも奢ってばかりの男性側の意見では、食事というデート中に発生した金銭を男性のみが払い続けることは男性のみに負担を強いることとなり、これは不平等である、ということになる。
反対に女性側の意見では、デートの準備と言う前段階から発生していた金銭はすでに支払っているため男性側も同額程度の出費をすることで平等としたい、ということになる(余談だが筆者は「自分で食べた分だけ払えばよろしい」と思っている。これだと後腐れがないので)。

また、最近流行っている議論として友人との遊びを誘う・誘われるのを待つ問題というのもある。これは「自分ばかり誘っており一向に相手から誘われるということがないのでないがしろにされている感じがする」とか、「自分から誘うのは断られたときに嫌だが、他人から誘われるのはウェルカムなので気兼ねなく誘ってほしい」とか、そんな感じだ。
誘う側は企画の提示、日程の調整、店の予約などやることが多い。ひとつひとつは軽いことかもしれないが、連絡がしつこくなっていないか、ちゃんと相手が答えてくれるだろうか、など積み重なると結構な心理的負担となっていることが多い。一方で常に誘われ待ちをしているほうは相手の質問にただ答えて任せるだけでいいので心理的負担はかなり軽いだろう。
誘う側が毎回変わったり、誘われる側が企画提示後の諸々の調整を積極的に受け持ってくれればよい。しかしそうでない場合、誘う側がしんどくなってしまい気付けば誘われる側がフェードアウトされていた、ということになりかねない。

さて、この二つの議論に関して共通していることは何だろうか?それは「常に片方のみが負担を強いられている状況はいずれ関係性のはたんを招く」ということである。食事代を負担し続ける男性も、遊びに誘うための調整を持ち掛け続ける人も、やがて「なぜ自分だけが?」と思うようになるだろう。

その状態になってしまったが最後、よほど相手と一緒にいるメリット(有名人なので一緒にいるとなんか自己肯定感が上がって嬉しいみたいな)がない限り疲弊してしまう。デートをすることよりも、一緒に遊ぶことよりも、そういったモヤモヤのほうが大きくなって会うことが楽しくなくなってしまう

誘われ待ちの奢られ待ちは無自覚な負担を相手に強いていることに気付かない。気付かないままにまわりから人がいなくなっていく。なぜなら持ち回りの負担は処世術として当たり前のことであり、それをこなさず甘い蜜ばかり享受することにまわりが耐えられなくなるからだ。

こうならないためにはどうすればいいか?それが「互助」だ。一度奢られたら次は奢りかえす、遊びに誘ってもらえて楽しかったなら次は自分がここに行ってみない?と企画を立ててみる。

もちろん一度の企画ですべてを負う必要はない。日程調整をしてもらったから店の予約は自分がする、1軒目で奢ってもらえたから2軒目は自分が奢る、とかでもいい。

また、長期的に見て社会全体に還元するという手もある。自分が若い時年上に奢ってもらったので、逆に自分が年下とどこかへ行くときは奢る、というような方法だ。


人間とはなにかしらの見返りを求める生き物だ。誰かだけが負担なしに楽をし続けるという状況にいい顔をする人はあまりいないだろう。

逆に言えば、人間は誰かになにかをしてもらった時にちょっとうれしくなるという性質も持っている。どこかへ行ったときにお土産を買ってきてくれたとか、ネイルかわいいねと褒められたとか、仕事が大変な時に手伝ってもらったりとか。そういう時、筆者は1.1倍くらいにして返すようにしている。

筆者の実体験として、誕生日プレゼントにサプライズで友達7人から筆者の好きなキャラクターの二次創作を新規で書いて持ち寄ったコピー本をもらった時に泣いて喜んだ。手先が器用な友人によってきれいにデコレーションされたかわいい硬質ケースをもらった時なんて誇張抜きに叫んだ(まわりに迷惑が掛からない程度に)。だから彼女たちが困っているときは積極的に優先的に手を貸すようにしている。自分ごとのように真剣に、だ。

再三申し上げているように、人から何かをしてもらうというのは自分が思っている以上に相手への負担を強いている。だからちょっぴり多めにお礼をするくらいがちょうどいいのだ。そうするときっと相手もまた自分が困った時に助けてくれる。

相手が快適に過ごせるよう気遣い合うという互助。それこそが心地よい人間関係を構築・維持するために不可欠なものである、と考えられよう。

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