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今井一暁『ドラえもん のび太の新恐竜』

※ネタバレあり。酷評を見たくない人は読まないこと。

『ドラえもん』の連載から50周年、今作で40作品目(新ドラからは15作品目)という記念すべき節目に今作へ期待する人も少なくないだろう。コロナ禍でなかなか子供向けアニメ映画が上映されない中で、待望のビッグタイトルだ。

近年のオリジナル映画作品(『のび太の南極カチコチ大冒険(2017)』や『のび太の月面探査記(2019)』)は、原作へのリスペクト・愛があり、芝山努が監督していた頃の旧ドラ映画を思い出すような胸躍るSFを描いていると思う。傑作というレベルには届いていないが、作画、演出、音響はどれも高クオリティで、新ドラから離れてしまった人たちは騙されたと思って見て欲しい。

リメイク作品に広げてみれば、八鍬新之介監督作品(『新・のび太の大魔境 〜ペコと5人の探検隊〜(2009)』『新・のび太の日本誕生(2011)』)は、旧ドラを超えてしまっていると言ってしまいたくなるくらいの傑作だ。

『のび太の南極カチコチ大冒険(2017)』や『のび太の月面探査記(2019)』とは対照的に、今井一暁監督×川村元気脚本のタッグは、原作へのリスペクトを感じない。作品への理解が足りていない、としか思えない物語展開が連発し、エモーショナルな盛り上がりのみに比重を置いたそのやり口に賛同できない。今作は新ドラの中でワーストと思える出来だったが、何がそんなに気に食わないのか簡単に2つあげてみる。

◯キャラクターが魅力的に描けていない

今作ののび太たちは異様に目をキラキラさせる。化石を見て、白亜紀の大自然を想像して、ワクワクして目を輝かせる。最近のドラ映画の中で際立って純真無垢というか、幼い精神性を持つ。とても単調な感情表現ばかりだ。

今作は、双子の恐竜「キュー」と「ミュー」を元いた時代に帰す物語だが、キューとのび太の絆を描きたいあまり、他のキャラクターの描写が疎かになっている。恐竜を双子にした設定は良いじゃん、と思ったが、ミューはキューの引き立て役になっていて、中盤しずかちゃんと仲良くなっているが、物語上何も影響を及ばさない。

ドラえもんもポンコツさが際立つ。何よりジャイアンとスネ夫の描き方を見て、ドラ映画への理解がないんだろうな、と思ってしまった。

皆さんはドラ映画におけるジャイアンとスネ夫の役割について考えたことはあるだろうか。ガキ大将であるジャイアンは、とにかく友情に篤い。ピンチのとき、必ず友情を優先して行動する。対するスネ夫は臆病で、優柔不断で、すぐに弱音を吐く。5人の中でいちばん我々に近い視点を持っていると言っていいだろう。そんなスネ夫もみんなに流される形で最後には一歩を踏み出す。この小さな決断に僕は胸を打たれる。今作では、そういった見せ場はなかった。


◯今作のテーマ「多様性」と「進化」について

インタビューで川村元気が言及しているが、今回のドラえもんは「多様性」と「進化」が重要なテーマだ。ここの処理が最もまずく原作への愛を感じないポイントだ。

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そもそもドラ映画は、異文化との交流を描いてきた。のび太たちは異文化に出会い、交流し、彼らが危機に瀕した時には身体を張って守る。そういった物語の構造になるのは、のび太は誰よりも頭が悪くて、運動音痴で、弱さを知っているからだ。のび太は誰よりも他者の痛みに寄り添える存在であり、誰かが傷つけられるのを黙っていることができないのである。「多様性」の肯定は、ドラ映画の根底に流れる重要な要素なのだが、今作は「多様性」の否定とも取れる物語だった。

キューとミューは翼竜で、羽を広げれば滑空できるのだが、キューはいくら成長しても滑空できるようにならない。のび太は、そんなキューに対して飛べるように頑張ろうと鼓舞する。キューが何かに対して怯えるたびにのび太は手を差し伸べる(それはもう露骨に何度も)。

中盤までは普通に見れたのだが、キューとミューの仲間が見つかった場面がとてもショックだった。キューが翼竜のコミュニティの長に攻撃されて傷ついてしまう。のび太はそれを見て、キューが飛べないからだ、とキューの特訓が始まる。キューは何度も失敗して、つらさのあまり特訓から逃げ出す。この一連のやり取りに多くのドラえもんファンは驚いただろう。キューが傷ついた時、今までのドラ映画であれば、のび太は傷ついたキューに寄り添っていただろうし、キューとコミュニティの長が分かり合えるように間を取り持とうとしたかもしれない。

しかし、今作は飛べないと餌を自分で取れず、生き残ることができないから、という論理を振りかざして、厳しい特訓をキューに課す。最近、話題になっている優生思想にかなり近い発想でとても恐ろしい。飛べないと生き残れない、そんな自然の厳しさを描きたかったのだろうが、スパルタ特訓を行うのび太の姿は、弱き者に手を差し伸べていた今までののび太とあまりにもかけ離れていた。

今作には明確な悪役はいないが、のび太たちを襲う大きな恐竜がいる。「多様性」がキーワードなんて川村元気は言うが、この大きな恐竜に対してのび太たちは戦う選択しかしない。対話をしようであるとか、散々ひみつ道具として登場させている「ともチョコ」も使おうとしない。

最終的にのび太を救うためにキューは飛べるようになり(しかも滑空ではなく完全な飛行)、ジルは恐竜から鳥に「進化」した歴史的な瞬間だ、と叫ぶ。このセリフでのび太のスパルタ特訓は肯定されてしまう。

ドラ映画とは全く違ったメッセージ、それも全く現代的でないそれに対して僕は賛同できない。今作を見た人は必ず「のび太の恐竜2006」を見て、ドラ映画の本来の素晴らしさを再確認してください。



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