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うらやましきは我が心 (閑吟集30)

 

「羨(うらや)ましやわが心 夜昼君に離れぬ」 (閑吟集)

人間の思考は自分の目の前に映るものから、瞬時に数万光年彼方の銀河の果てまで飛ばすことができ、その速度は何ものも優っている。

この身を飛ばすことが出来なくても、
気持ちだけを飛ばすこの人間の想像力あればこそ、恋というものを楽しむ文化も育んできたといえるだろう。

恋をしたことがある人なら誰でも、
逢いたくて逢いたくて、でも逢えない夜の寂しさを知っており、
今頃、どこにいるのだろう、何をしているのだろう、誰と話をしているのだろう。
いろんな想像をめぐらせ、その根拠のない想像に喜び、嫉妬したりするやるせなさも知っている。

想い人を想う人の心は、まさに標なき道を旅するかのように天空をさまよい続ける。

想い人を想う心のその凄さは、その人がいつどこにいようとも、瞬時にその側に飛んで行くことが出来る。
たとえ海の向こうにいようとも、
あるいはもうこの世にいない人であろうとも、
その情念は一瞬のうちに海を越え、月の輝く雲の間をすり抜けてその人のもとに到達する。

しかし体はその心についてゆくことができないから、恋をした人はその心身分離の辛さに身をもだえさせることになるのだ。

「羨(うらや)ましやわが心 夜昼君に離れぬ」 (閑吟集)

この心はなんとうらやましいことでしょう。
(この身はできないのに)夜も昼もいつでもあなたと一緒にいられるのですから。

逢えないという嘆きと寂しさを逆説的に表現した心理。

現実はいくら心を飛ばしても相手に伝わらなければ、ただの自己満足に過ぎず、逆に切なさが募るばかりなのかもしれない。

しかし飛ばしたくなるほどに心奪われた恋を知っているからこそ、その心の力は強くなっていくのであり、
空の飛び方を知っている心を持っているならば、恋はより深く味わいが増し、
やがてその心に導かれ体がついに重なった時には、

今度は心が体をうらやましがるほどに焦がれ燃え上がることになる。

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