きりがないほど深まる恋 (宗安小歌集14)
「いかな山でも霧は立つ 御身愛しには 霧がない、霧がない なう限りがない」(宗安小歌集)
四季の中で「気配」という言葉が使われるのは秋だけ、
それはたとえば出逢ったばかりの人にあるかなきか恋心を感じる風情にも似て、
そして「深まる」という言葉も秋にしか使われず、そんな気配の段階からどんどん恋心が深まっていく様にも良く似ている。
暑かった夏を通り過ぎ、少し物寂しげな気分に浸りながら、鈴虫の音色や月を眺めつつ、すすきが風に揺らぐさまを見ながら、服の間を通り過ぎる風のやさしさを感じ、
やがては木々が色に染まり、空はどこまでも青く高く、山には霧が漂う。その森羅万象の様も、恋の心情にも近いものがあり。
春は霞(かすみ)、秋は霧(きり)と呼ぶ。
いずれも視界を遮り、行く道を不明瞭にしてしまうものなのに、景色がぼんやりとさせる風情はまた風雅があって、恋を上手に演出する舞台にもなってくれるもの。
春の霞がこれから晴れてくるという印象があるのに対して、秋の霧はこれから深まる語感が伝わり、それは恋の前途を不安にさせるという意味ではなく、男と女の間に吹く秋風という意味でもなく、
それは心をしっかりとおおいつくす恋の深み。
「いかな山でも霧は立つ 御身愛しには 霧がない、霧がない なう限りがない」(宗安小歌集)
どんな山にでも秋には霧がかかるものだけれど、あなたを愛しく思う気持ちにはいささかの霧もかかりません。きりがないのですよ。もう、限りなく。
こんなふうに想い想われるのならば、秋の風情はすべて二人の味方となり、秋の紅葉は二人の情熱を静かに燃やし、月の輝きを隠す霧も二人の情事を月が恥ずかしがっているからであり、冷たい風も二人を寄り添わせてくれるために吹くのだと。
深い秋が訪れた時、男と女の体も心も、
古都の紅葉のように風情たっぷりに真っ赤に染まる。
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