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ルーヴル美術館展 愛を描く

京セラ美術館で開催されていた企画展に行ってきました。
ようやく落ち着けたので感想記事を書きます。

ただ自分の感想がかなり穿った、というかいじわるな見方なので、そういうのが嫌な人はご注意願います。





端的に言うと「性癖大披露博覧会だったな…」が率直な感想でした。
人間の根源的な感情の「愛」の表現だとか、ルーブル美術館貯蔵の珠玉の作品だとか、仰々しい言葉が並び立てられてるから、崇高なものだみたいな印象を与えるんだろうけど。
ごめん、自分にはどうしても「同人イベントで作者の性癖の具現化みたいな本が並んでる図」がまっさきに脳裏に浮かんだ。あれは性癖披露大会。

または当時の絵画は依頼主の要望に従って描くパターンも多いので、作者自身の性癖というより「その時代の愛情表現(あえて言葉を選ばずに書くとセックスアピール)」とかがもろに出てた展覧会だったと思う。

そういう意味でめちゃくちゃ生々しくて、京セラ美術館の文を引用すると「かつてない趣向の展覧会」だったと思う。


◆寝取られ強奪系・誘惑系好きすぎ問題

「いや結構直接的な作品多いね???」ってなったのが最初の感想だった。

オレイテュイアを掠奪するボレアス、デイアネイラを掠奪するケンタウロスのネッソス、パンとシュリンクス
こっちは寝取られ強奪系

ここら辺の意図は図録でハッキリと言語化されてて攻めてんな~と思った。
以下図録からの引用。

ギリシア・ローマ神話の神々の愛の物語の大半において、欲望を満たすための男性の戦略は単純に主人公の肉体的な強さに基づいている。掠奪と「誘拐」、つまり強姦の場面は画家たちにとって洗練されたピラミッド構図や衣服が舞い上がる様子を描く機会となり、同時に不安、茫然自失、激しい恐怖、苦痛を様々な度合いで描き出し、他方では男性の欲望の暴力性を表すことを可能にする。


(強姦ってもろに書いてあって吹いたよ…)
筋肉隆々の男と柔肌で艶めかしい女の肌の対比とか、乱れた衣服の描き方で立体感を出したりとか、動きのある構図だから迫力も出るとか、あるよね~現代でもなんやかんや言って人気が高いジャンルだもんね~~~

人間な~~~んも変わってない!!!!!!

女性が無防備な裸体を晒して艶めかしいポーズをとっても「大丈夫」だったのは題材が「物語の人物」だから。

いわゆる「二次元の創造物の話のイメージ絵だからセーフ」理論です。

だから一見ヌード絵にしか見えないんだけど、当時の人たちは「これは女神の絵だから現実の人間の絵ではないのでヌードでも問題ない!!」という話です。
寝取られ強姦もの好きです!!とか現実で言ったら色々失うけど「あくまでも創作物としてのそういう話が好きなんです!!」理論です。

話は逸れるけどイギリスの絵でやたらと人魚の絵が多いのもこれ。
「人魚は人間じゃないから!!尾っぽが魚だし半裸の女性の姿なだけでこれは人魚っていう生き物なので!!男を誘惑してくる構図が多いのも人魚がそういう生態なだけなので!!!」理論です。
(なお乳首はNGなので髪の毛や貝殻で巧妙に隠してたりする)

人間な~~~~~~~~~んも変わってない!!!!!!

「同人会場来ちゃったよ…」ってなったのが率直な感想でした。

また「無防備に全裸・半裸を晒した女性が情熱的に艶かしく男(もしくは鑑賞しているこちら側)を誘う図」が多いのも、作者自身の性癖もあるけど、または依頼者側の要望に応えた結果だったりもする、と考えると、当時の美術界隈の圧倒的男性人口がわかる。
(個人的にはそういう人の心理も含めての美術、歴史だと思っているので肯定も否定もしない派です)


ただルネサンス期から女性画家も活躍しているので(ラヴィニア・フォンターナが多分有名だと思う)、男社会だから野蛮なんだ!みたいに簡単に括れないのが歴史の面白いところだと思う。

なお「想像上の人物だからヌードで描いてもどんだけエロく描いてもセーフ」理論をぶっ壊して本物のモデルをそのままヌードで描いて「なんてけしからん!!ふしだらだ!!」と大炎上したのがマネの「草上の昼食」「オランピア」です。同じヌード画なのにね?

人間って面白いね!!!!


◆キリスト教の愛

うって変わって『キリスト教の神のもとに』という、キリスト教を題材にしたブースでは「慈愛」「親子愛」が主なテーマのため、そういう生々しい「愛」とは無縁な「母の愛」「無償の愛」が描かれていた作品が多かった。

いや温度差!!!!

この後のブースもいわゆる「人間の愛の営み」が多かったので逆に「絶対的な存在から与えられる潔癖で尊い愛」みたいなここのブースが異質だったまである。


◆匂わせ系絵画

元ネタの絵画を知っていると「うわ~~~!?!?」ってなるのが、サミュエル・ファン・ホーホストラーテン の「部屋履き」

この奥に飾られてるのがヘラルト・テル・ボルフの「雅な会話」という絵なわけですが、このタイトルはただの後付けで、何をしているところを描いている絵なのかというと「娼館で娼婦が客を取っているところ」なんですよね。

で、その絵がかけられている部屋で人物は描かれていないけど、脱ぎ散らかされた靴。「穴にささった棒状のもの」は「性行為の暗示」として描かれることが多い。
「愛の気配」って濁して書いてるけどもう完全におっ始まってますよね?
あえて人物は描かずに空間だけで匂わせてくる巧みさが好き。

ちなみにヘラルト・テル・ボルフもサミュエル・ファン・ホーホストラーテンもオランダの画家なんですけど、オランダもこういう娼婦の絵って結構多い。オランダは「欲望に忠実」、「人に迷惑をかけなければ何してもok」というポリシーの国。オランダの観光地の一つでもある「飾り窓地区」は有名なんではないかな?オランダにはこうした陰のテーマもオープンに転化できるような文化が根付いてるな…と思う。

◆「ブランコ」という「あざとさしぐさ」

展示会場の副題が「フランス流の誘惑のゲーム」というところからわかる通り、現代でいう「あざとい」がよく見られる絵画が揃ってて、「進研ゼミで見たやつだ!!」状態だった。

ポンパドゥール夫人の動きがきっかけとなって花開いたロココ文化のひとつに「あざとい」「匂わせ」というのがあります。ストレートなのはダメ!チラリズム、男女の密やかな駆け引き、コケットリーというやつです。

象徴的なのがジャン=バティスト・パテルやフラゴナールの「ぶらんこ」
ドレスでブランコするので裾が舞い上がって足がもろ見え、なんならガーターベルトももろ見え。(多分その中も見えてる)でもわざとじゃなんです!無邪気に遊んでて裾が舞い上がっただけなんです!
っていうプレイです。

「庭園での軽食後の楽しみ」も女の子が目隠しをして男の子と鬼ごっこをしている絵なんですが、当時の目隠し鬼のルールは、目隠しをした鬼が相手を捕まえると、誰を捕まえたかを当てるために身体中を触って確かめる、というもの。目隠ししてるからね!どこ触ってるかなんて分からないからね!わざとじゃないよ!
っていうプレイです。

あざてぇ~~~~………

「ハンカチをわざと落として男に拾わせる」プレイを始めたのもポンパドゥール夫人です。逆にそういう「裏に隠されているセックスアピール」をうまく読み取っていかないといけない社会だったので、当時の貴族階級のフランスって大変だな…と思ってしまう。


ちなみに「華やかで優美で官能的な文化」というロココ文化のアイコンとしてポンパドゥール夫人と同じかそれ以上に挙げられるのがマリーアントワネットだけど、当の本人はフランスに嫁いだ当時「フランス語はわかるけどやってることが意味不明」って言ってたらしいのがおもろい。

またロココ文化で特徴的なのは「自然主義」。
豊かな自然の中で散歩したり愛を語らったりする上流階級の男女の絵画が同じように多いのがこれ。
花や花束をモチーフにしたダイヤモンドジュエリーも女性たちに人気だったそう。

フランス革命によって華やかなロココ文化も終焉を迎えるけど、逆にそのあと「華やかで浮かれているから堕落するんだ」とガチガチな形式・写実性を求めた「新古典主義」の反動で18~19世紀にはロマン主義(各々が描きたいものを描く自由を求める流れ)が生まれるのが面白いと思う。


西洋絵画ってひとくくりに見がちだけど、国や時代によってこんなにも流れが違う(何なら作家ごとでも違う)から面白い。


◆フラゴナール・ブーシェが好き

自分は展示会を見て「やっぱりフラゴナールやブーシェの絵が好き!!」という気持ちが強くなった。いわゆるロココ絵画です。

明るくて甘美な色彩、繊細で華麗な描写、絵から匂い立つようなまったりとした甘やかな雰囲気、優美さ、柔らかさ、全部好き!!

◆ビッグネームだから出来ること

今回の展示会で総括として思ったのはこれです、「ビッグネームだから許されてるよな…」

冒頭にも書いたんですけど端的な感想が「同人会場やんけ」だったんです。


同人会場も人の欲望の具現化みたいな作品がズラッと並んでるじゃないですか。昨今そういう趣味を出すと「人間を性的に搾取するな!二次元だろうが関係ない!」と怒られたりするのが多かったりするでしょ?
コンプライアンス的にもそういう観点から色々厳しくなってはいるし。

でも「ルーヴル美術館貯蔵の珠玉の傑作たちです!歴史ある作品たちです!愛の概念を多方面から精密なタッチで描いています!」という説明文を添えたら、生々しい強姦シーンを描いていたとしてもそれは「立派な芸術品」として世間からは扱われるんです。

不思議よね〜〜〜〜

現実の人間の裸体を描くとNGだけど「創作上のファンタジーのキャラクターを裸体で描くのはOK」理論にも通じるところがあるけど、結局何やかんや言って人は欲望を肯定するのにある程度の「建前」を欲しているんだな、と思った。

話は逸れるけど、いわゆる花の24年組の言われる1970年代の少女漫画に革新的な作品を発表した伝説的な少女漫画作家、BLの始祖的作品も多く誕生した歴史が日本にはある。
その漫画家の1人である萩尾望都さんがインタビューで

「当時の少女漫画の主人公は清純な女の子が好まれた。性的に積極的な女の子はいても性悪な性格のライバルタイプ(=悪として否定されるべき存在)で、主人公にはとても据えられなかった。だから美少年を主人公にすることで性的に積極的な作品を描けた」

と語っていたのが衝撃だった。

「BLは「男性同士の恋愛」ではなく中性的な男性を主人公に置くことで、男同士の恋愛という『ファンタジーのフィルター』がかかるからこそ、女性も性的に積極的な恋愛漫画が楽しめた」
と作者本人が語っていたのが尚衝撃だった。

「この主人公は女の子ではない=私ではない」という「許し」があるから、作品として楽しめる、という心理は「このヌードの女性はファンタジー上のキャラクターだから!」というのと近いと思う。

(「女性という型にハマりたくない」という気持ちが強い方ってまず「女性というのはこうあるべきだ」という概念がガチガチに固まっている方が多い気がする)
(自分は職業柄色んな女性と出会っているけど、性別が女性なだけで性格や格好、趣味嗜好や価値観が同じ人はまず見た事がないので、「女性というのはこうあるべき」という概念自体が実態のない幻想だと思っている)


自分は女性アイドルが好きなので、なおさら良く感じるんですけど、可愛い女の子がミニスカートでパフォーマンスすると「性的に搾取するな!」って言われることが多いけど、ホットパンツで胸が開いた衣装で股を開いた蠱惑的な振り付けをしたとしても、カッコいいメイクと曲なら「強くてかっこいい女性」として絶賛されるパターンが多いしね。


いじわるな言い方になるけど、結局本質がどうとかを本気で見ている人は少なくて、その人本人が「許せるかどうか」で物事を図っている、というパターンが多く、「ビッグネーム」「世間的に人気がある」というのはそれだけで「許し」やすくなる心理になる、と思う。

それ自体を否定するわけではなく、むしろそういう捻れた人間心理を含めての美術史、歴史だと思うし、生々しい欲望を直視できずに建前を介して許すことで受け入れる人間は、滑稽だけど愛おしいと思う。(捻くれが加速して暴走を始めるのは勘弁願いたいけど)


「愛の概念とは何なのか」を表現する企画展というのが今回のコンセプトだったと思うんですけど、個人的にはもっと根幹部分の「人間の欲望」とそれの向き合い方、について考えさせられる企画展でした。

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