ボクの人間関係論

久しぶりのnote投稿になります。
以前、継続的に書いていたものに関しては大半を削除してまた新たに始めようかなぁと思っています。
一定期間noteの投稿から離れていた理由は単純に「飽きたから」というワケなのですが、きっとまた飽きる日が来ると思うのでその時まで小童の戯言にお付き合いください。きっと暇つぶしにはなるのではないでしょうか。


共通言語は「誓い」


僕は、特に取柄といえるものはありませんが、多くの人が自分の事を見ていてくれて、支えてくれて、期待してくれているように感じます。それはつまり、たくさんの人が僕と関わってくれているということだと思います。
取柄のない僕なんかにどうして他の人が関わってくれるのか、この前ふとそんなことを考えていたのですが、それはおそらく関わってくれている人と自分との間で共通言語のような物を持っているからだろうと思います。
ここで言う共通言語というのは使っている言葉が共に日本語であるとか、英語であるとかという単純なものではありません。
ここでいう共通言語というのは、僕とその人との関係を維持し、結ぶためのツールという意味です。

思い返してみると、小学校4年生の春に出会った僕にとっての柔道の恩師との共通言語は「全国大会」という言葉だったし、中学校で出会ったある友達との共通言語は「努力」で高校で出会った友達とは「夢」、部活の戦友との共通言語は「出世」で、大学の友達との共通言語は「楽しむ」、バイト先の仲間との共通言語は「いい雰囲気」だったし同じくそこの先輩との共通言語は「任せたよ」だった。
しばらく会わなかったり、逆に毎日のように会う人とも、究極的にはこんな共通言語で結ばれているような気がしています。だからお互いに離れない。

僕と周りの人とを繋いでいる共通言語は常に「誓い」だということに気が付きました。
おそらく、誓ったばかりの言葉がすぐさま共通言語化することはありませんが、結果的に誓いを果たせたかどうかは別として、誓いを果たそうとひたむきに努力をすることで、無意識のうちにいつの間にか共通言語化していったように思います。
誰かと出会って、たくさん話して、期が来たときにいつの間にか誓い(共通言語)が生まれ、その誓いを果たそうと努力することで僕と相手との人間関係が強固になる、そんな気がしています。

もちろん人間関係なので、その過程で相手との摩擦が生まれることもあるし、その摩擦が大きな溝につながることもありました。でも、人間関係の摩擦を超えて再び交わったときに、相手との関係が深まっていくことも確かだと実感しています。

この前、たまたまテレビをつけたら石原慎太郎さんの特集がやっていて、惰性でみていていただけでしたが、最後の方でこんなことを言っていました。

「他者との摩擦を恐れず、自分を貫け。」

自分自身の考えと、石原慎太郎さんの言葉が重なったような気がしてちょっと嬉しかったことを覚えています。


誓いを果たす日は誓いを果たす日は「近い」


一般論として、「誓い」というものを立てた以上はそれを果たすことも求められてくるのだろうと思います。
先ほど並べた私と私の周りの人とで立てた誓いを果たすことはできるのかと考えたときに、既に果たせなくなってしまった誓いも少なからずあります。
そんな、果たせなかった誓いとどう向き合っていくべきなのかということも同時に考えてみました。

ここまでつらつらと書き綴ってきた文脈でいうと、誓いを果たすということよりも、誓いを果たすために努力をすることの方が重要だということだと思うんです。努力をしたからといって何か一気に目標が達成されることはほとんどなくて、努力の積み重ねや小さな成果の積み重ねが結果的に目標達成に至るということが多いのではないでしょうか。
私の人間関係も同じで、誓いを果たせなかったから「はい終了」ではなく「果たせなかったけど、頑張ってたよね」という評価をしてもらいその積み重ねで人間関係が成り立っているような気がします。

誓いを果たす日は近いのかと言われればそうではありません。
でも、近いかもしれないと相手に期待をしてもらえるだけの努力を積み重ねながら日々生きていこうと誓いたいと思います。

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