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スポットライト

松下洸平さんの『つよがり』という曲から着想を得て書きました。曲とは直接一切関係のない、あくまでも私の想像の世界の物語です。

大学4年の夏のことだ。演劇が好きで、大学でも仲間と演劇をやっていた。いつか大きな劇場で、有名な演出家の演出する舞台に立ってみたい。そんな自分を思い浮かべながらも、現実は厳しい。そんなところに立てる人はほんの一握りだ。色々悩んだ結果僕は、就活をして地元の企業に内定をもらった。演劇仲間の多くも、同じ決断をしていた。たまに集まって台詞を読み合ったりすることはあったが、その機会も自然と少なくなっていった。
もう演劇からは離れよう。
そんなことを考えながらも、なんとなく目に入ったポスターに引き寄せられ、街の小劇場を訪れたのが彼女との出会いだった。

彼女はその劇団で座長を務める女優だった。初めて見た彼女は、舞台上でひときわ凛として美しく優しく、そして情熱的で荒々しく、長い髪や細い指の先までその役になりきっているようで、僕は一瞬で心を奪われてしまった。

お芝居が終わっても、しばらく動くことができなかった。舞台が大好きで数々観劇してきたが、こんな経験は初めてだった。気付くと周りの客は誰もいなくなっていて、目の前に彼女が立っていた。

はっと我にかえり、慌てて立ち上がって膝の上の鞄の中身を全部ひっくり返してしまった僕を見て、彼女は豪快に楽しそうに笑った。

「熱心に観てくれていたよね。ありがとう」
「あまりにも素晴らしくて…僕、大学で演劇やっていて」
「そっか、学生さん。良かったら今度稽古場に遊びに来ない?」

僕もう、演劇は辞めるんです
とはなぜか言えなかった。代わりに、
「はい、是非!お願いします」
と答えていた。
それから、彼女の劇団の稽古場に通う日々が始まった。

劇団には年配の劇団員が多かった。各々仕事をしながら、でも真剣に芝居を楽しんでいた。彼女は最年少だったが、常に全体を見ながら皆に的確な助言をし、いつも明るく公平で、そして自らの芝居にも妥協がなく前向きで貪欲だった。

あぁもう一度舞台に立ちたい、この人と一緒に芝居がしてみたい。
心の奥に仕舞い込もうとしていた演劇への想いが、彼女への愛しさとともに溢れてきた。

ある日、稽古を見ていた僕に彼女が声をかけた。
「一緒にやらない?」
僕は断る理由もなく、導かれるように彼女の隣に立った。
渡された台本を手に、台詞を言い合う。
楽しい。ドキドキする。演劇を始めたときのような高揚した気分。恋だ。演劇と、彼女への、確かな恋心に気付いてしまった。
「この劇団に入りたいです、一緒にお芝居させてください。お願いします!」
ドキドキしたまま頭を下げた僕を、彼女も、劇団の皆も、温かく受け入れてくれた。

彼女は僕との芝居に、とても真剣に向き合ってたくさんアドバイスをくれた。いろんな話をしてくれた。
稽古場からの帰り道が一緒だったこともあって、二人で話す時間が多くなっていた。芝居のこと、新作映画のこと、流行りの歌のこと、人気の俳優のこと。おっちょこちょいな僕の失敗談を笑って聞いてくれることもあった。
稽古中はいつも完璧にカッコいい彼女が、帰り道のお喋りの時は、芝居への悩みや不安を吐露してくれることも増えた。
ただ聞くことしかできなかったが、彼女はいつも「聞いてくれてありがとう」と微笑んだ。それが僕は、嬉しくて誇らしかった。

そんな中、劇団での新しい舞台公演が決まり、僕が彼女の相手役をやることになった。
台本を読み進めると「キス」の文字がある。
芝居とはいえ、彼女とのキスだ。
そのシーンの稽古をする日、僕はとても緊張して稽古場を訪れた。
彼女はいつもの笑顔でそこにいて、わざとからかうように声をかけてくれる。僕はなんだか心がほぐれて、その日のおっちょこちょいな失敗談を面白おかしく話した。
彼女はまた豪快に笑って、
「無意識にゴミ箱に鍵捨てちゃってたって?!ほんともうそういうとこ!あー涙出る、笑いすぎた、ごめんごめん。良かったよ、鍵が見つかって」
僕の肩をポンポンと叩いた。
「さっ稽古しよ!始めましょう」

劇団の皆が見守る中、二人のシーン。
台詞を掛け合い、言葉が消えて見つめ合う。真剣な面持ちで彼女に近付き、そっとキスをした。
すると彼女はいきなり大声で笑い出し、
「ごめん!さっきの話思い出しちゃって…真剣な顔してるのにこの人鍵捨てちゃったんだよなって思ったらもう…!ごめんごめん」
涙を拭いながら笑う彼女につられて、僕も笑った。
心が通じ合った気が、確かに、した。

その日の帰り道、いつも笑い話ばかりする彼女が、神妙な顔で黙っていた。
「どうしたんですか?大丈夫?」
「あ、ごめんね。さっき、真剣にお芝居してくれてたのに笑ったりして。」
「いえ、そんなこと」
「ちょっと、座ろっか」
真っ暗な公園のベンチに二人で並んだ。

「あのね、嬉しくて。あさひくんとのお芝居、本当に楽しいの。今まで知らなかった自分がどんどん出てきて。ワクワクするし、ドキドキするし。」
そう言うと彼女は真剣な顔で僕をじっと見つめ、そっと近付いてキスをした。
「大学卒業したら、演劇、やめちゃうんだって?」
僕が他の劇団員に話したことを聞いたらしい。
「もったいないよ。旭くんと舞台に立ってるとすごく安心するの。皆も言ってた。どんなことも受け止めてくれる柔らかさは、あなたにしか出せない味だよ。それに、こんな風に私の中の未知の部分を引き出してくれたの、旭くんが初めてなんだから」
何をやってもそこそこ人並みにできる、でも突出したものはない。個性と呼べるものもない。自分なんてっていつも思っていた。
誰かが初めて、自分を見つけてくれた気がした。
僕はたまらず彼女を抱きしめて、
「僕も初めてです。こんなにこの人とお芝居がしたいって思ったこと、なかった。」
顔が見たくてゆっくり体を離すと、彼女は僕の目をまっすぐに見て、
「今度の公演、成功させようね。」
と微笑んだ。
かわいくて愛しくて、誰にも触れられたことのない心の深いところに触れられた気がしてくすぐったくて、僕は目を閉じて優しく唇を重ねた。

公演は大成功だった。
彼女とのお芝居は、お互いを知り、求め合い、心の通じ合う甘美な時間だった。
皆で打ち上げをし、帰り道、僕達は暗い公園を黙って二人で歩いていた。どちらからともなく、ベンチに腰を下ろす。
「お疲れさまでした。」
僕が言うと、彼女は何も言わず僕を見つめてそっとくちづけし、そしてため息をついた。
「あはっ、ほんと疲れましたよね、お疲れさまですよ、ほんとに。ふぅっ」
僕は大袈裟にため息をついておどけたが、彼女はいつものように笑ってはくれなかった。
「私ね、東京に行こうと思ってる」
僕は黙っていた。
「実は前から、声をかけてくれていた事務所があって。本気でそこでお芝居やってみようと思う。やっとね、思えるようになったの」
彼女はたった一人の家族だったお母さんを、少し前に亡くしていた。
「母のことがずっと心配だったんだけどね、でもそれを言い訳にしていたのかも。母はずっと応援してくれていたから。一人になって、やっと決心できた」
彼女はきっぱりと、でも少し寂しそうに言った。
僕は何も言えない。そんな彼女を守ることも、不安や悲しみに寄り添い受け止めることも、自分にはできないと思った。行かないで、とも、一緒に行く、とも言える覚悟はなかった。僕はあまりに弱かった。彼女が見つけてくれた僕の個性は、何でも受け止められる柔軟性ではなく、柔らかすぎて何の覚悟もないただの弱さに思えた。
「それとね、あなたに出会えたから。旭くんと出会って、一緒にお芝居して、自分をもっと知りたい、もっと広い世界が見たいって思った。あなたが私に力をくれたんだよ」
彼女は僕の手をとって立ち上がり、強く抱きしめて、
「ありがとう」
と言った。
色々な想いが痛いほど伝わって、僕は涙をこらえて頷くことしかできなかった。彼女の決断を黙って受け入れることが、弱い僕のせめてものつよがりだった。
彼女は僕の肩をポンポンと優しく叩いて小さく笑い、歩き出した。
その美しい後ろ姿を、僕はただずっと見ていた。

次の日、彼女は東京へと旅立って行った。

それからしばらくして僕は、内定していた企業に辞退の連絡をした。母は当分口をきいてくれそうにない。
でも僕ははっきりと心に描いてしまったのだ。彼女と同じ大きな舞台に立ち、たくさんのお客さんの拍手を浴びて、二人で笑い合う自分の姿を。その心の中の僕の姿が、僕を励まし支えてくれる。少しだけ強くなれる気がする。もう迷わない。彼女が信じてくれた僕を、これからは僕が信じるんだ。
やっと一つ覚悟をして、強い足どりで僕は歩き出した。
暖かい日射しが降り注ぎ、溶けた雪の間から顔をのぞかせた小さな蕾を照らしている。季節はもうすぐ春になる。

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