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悲しみが過ぎ去るまではパジャマの胸元を掴んで待つ


 気を抜けば泣いてしまいそうになるようなことばかりが続いている。わたし一人では太刀打ちできないようなことなのだけれど、(力量不足で)どうにか頑張って乗り越えねばならないところなのだろうとも考えているからこそ、踏ん張ろうとはしていて、泣かないでいて、泣かないでいようよ、ねえ、と咄嗟に自分に自制をかけてしまう。こぶしをぎゅっと握ってそのまますり潰して放つようなことを気づいたらやっていた。心力削られていくと同時に体力を削られて、知らぬ間に夕方となっていた。

 無心で猫と遊んでいたら、穂村弘さんの『シンジゲート』にある、


 「海にでも沈めなさいよそんなもの魚がお家にすればいいのよ」

 

という短歌をふと思い出した。なんだかムーミンシリーズでスナフキンが言い出しそうなセリフだなあと思い、スナフキンのような心も、穂村さんのような心も今のわたしには必要なのだと気づく。

 こんなもんでも沈めちゃえば魚が棲んでくれるでしょうか。小さな小箱も、錆びついたバケツも、一番綺麗に光って見えるところが欠けたオーロラグラスも。言葉にすることもできない散々な感情も、海に沈めて仕舞えば何も知らぬ魚が安全な場所だと思ってくれるでしょうか、ああ、名をつけた感情を整理するのは難しいね、どうにかうまくやっていきたい。


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 思い出した後に『シンジゲート』を開いた。穂村弘さんの短歌の素晴らしさを語ろうにもうまく語れぬ語彙力の低さのせいでやっぱ何にも書けない気がするのだけど、穂村さんの短歌を鑑賞していると悲しくなっちゃうことが多くて、でもそれは感情をなぞっているような感じで、それにときどき、爪を立てるような反抗心を感じたりもする。胸がぎゅっとなりながら読む。

 

糊色の空ゆれやまず枝先に水を包んで光る柿の実

 

この一首も好きで、初句『糊色の空』からくるのってすごいな、糊色、わたしの中で思い浮かぶのは幼稚園の時に使ってた黄色い顔の容器のやつで、(赤い帽子がふたのやつ)水のりだよなあ、白っぽくて、柔らかい感じの、その空がゆれやまずというのは雨風のせいかな、でもどちらかというと雨はもう止んだ直後なのかな、そうしてその中光っている柿があって、少しだけ肌寒い秋の日を連想させる。風が吹いていて寒いだけで湿度は高い。秋晴れの過ごしやすさや快適さにばかりに目が行くなかで、雨の日を切り取るのがいいなあ。素敵だなあ、と思う。そしてやっぱり、少しだけ悲しい、あと寂しい。

 

 美しい短歌がたくさん詰まっていて、何よりこんな風に思ってもいいんだ、思いついていることを大事にしてもいいんだ、そこに見えているもの、見せたいものがはっきりしていれば、いいんだ、間違いなんてないんだ、と背中を押してもらえる。言葉が美しすぎて読んでるうちに何回深呼吸するかわからないのだけど、いつの間にか慰められているわたしがいた。とっても好き。好きだ。

 あとがきにかえての『ごーふる』も好きだ。「カルピス飲むと白くておろおろした変なものが、口から出ない?」なんて聞かれたら、わたしもその人のことを好きになるだろうと思った。きっといい人だもの。素直で。仲良くなりたいって思う。そうして二人がつるつるとごーふるだったけれど、小さな祈りの中で守られて手を取り合っている二人がとても切なくて苦しくて、美しく、羨ましくも見えた。わたしは一体何を読んでいるのだろう。感情だけが切り抜かれて不思議。

 

 心のリハビリを行うように読んだ。わたしはいつまでもいつまでも美しい短歌を詠む人たちや、美しい物語を紡ぐ人たちにも心を奪われ続け、あこがれ続け、どうにかわたしも、なんだかんだどうにかこうにかやって、小さなひかりになれたらいい、と足掻くのだろう。

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(ちなみにわたしはレモンでした。)



 素直になることです。

 いつまでも、何でもかんでも正解不正解を基準に選ぶのではなくて、いま、どうありたいかで生きなさい。恐れないでいなさい。


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