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初めから気づいていなければならなかったわけじゃない

 昨日のこと。

 書店に行った。書肆侃々房さんのところで新しい歌集が出てるとのことで見に行きたくなって、いてもたってもいられなくなった。書肆侃々房さんの新鋭短歌シリーズがしっかり置いてある書店で、目移りが半端ないのだけど、時間の許される限り見てみようと思っていた。

 目的の歌集コーナーへまっすぐ行って、新刊をパラパラとめくった。どの歌集も素敵だった。素敵で素敵で、ああ、どこまでもすごい、どこまでも好きだ、と思った。

 それはどの歌集も同じで、それぞれの世界の特徴があって、言葉のつらなりが滑らかだったり花が咲くように華やかだったり、色のまとまりも違うしで、文字なのにたくさんの世界が見える。やはり歌集は一冊一冊が惑星のようだ。惑星を旅するように手に取り続ける。センスオブワンダーを失っていない人たちなのだと思う。

 でも、それと同時に自分の詠む短歌があまりにも拙すぎて、妙に心が荒んでしまって、新しい歌集を買うことができなかった。売り上げに貢献できず申し訳ない。咄嗟に、修行したい、出直したい、自分が恥ずかしい。という気持ちになった。とっても勝手に。戦っているつもりでもなく、作っていることを楽しんでいたのだけれど、素敵な作品を目にすると、わたしの言葉の研磨が全く足りておらず、ピカピカの泥団子を作ったつもりだったのに、人と並べてみたらめっちゃざらざらしてるな、という感覚。反射的に比べてしまうわたしの性質が嫌になって、いつの間にそんな妙に鋭利なプライドみたいなの持ってたんだよ、と恥ずかしくなったのだった。とはいえそれだけ世に出ている歌人や作家はすごいってことがよくわかった。ああ、世界って本当に広い。それだけで未来が明るくも見える。

 どれくらい歌集コーナーで突っ立っていたかわからないのだけど、視界の端で他のお客さんがウロウロしたり立ち読みしていたりとなんとなくその動きは感知していて、あまり気にしないようにしていたのだけれど、その中で一人、なんかさっきからよく視界に入るような気がするな、という男性がいた。

 結構特徴的な服装とヘアスタイルをしていたので詳細は省くが、年齢はわたしと近いような気がした。正直、『本当に本を見に来ているのか?』と疑ってしまう雰囲気をしているな、とわたしは思った。個人的にだけれど。目当ての本があるわけでもなさそうで、立ち止まったようですぐ歩き出し、ぐるぐるぐるぐるそこら辺を歩いていることがなんとなく見えていた。

 歌集コーナーを離れ、たま子さんが『新約聖書を知っていますか』という本をお勧めしていたことを思い出し、一旦検索コーナーに行って在庫を調べ、在庫ありとのことで場所を覚えてから向かった。新潮文庫のところ。どこだどこだと真っ直ぐ新潮文庫のところへ向かい、『あ』のところを探したら、すぐに見つかった。

 (お。あるじゃーん。ラッキー。)

 と思いながら抜き取ってパラパラ読んでいた。(どうしようかな買って帰ろうかな〜どうしよ〜でも多分カラマ読み終わったら欲しくなっちゃうな〜)と思い、よし買うか、と歩き出そうとしたときに、ふと後ろに影があることに気づいたのだけど、右に振り向く動作とその気づきが同時進行だったので、何も止められず振り向くと、さっきの男性が真後ろに(しかも結構至近距離で)立っていて、わたしが振り向いた瞬間、バッと身を翻してどこかへ行ってしまった。

 え????いつからいたあの人????真後ろになんでこっち向き?????そんでなんであんな急いで去っていった????

 何食わぬ顔でその場を離れたけれど、頭の中はひゃーーーーーっとだんだん真っ白になっていった。何がどうなったとかもわからないし、勘違いであればごめんなさいなんだけど、もし、同じ新潮文庫のコーナーで、同じ棚が見たいとして、わたしの真後ろから見る?確かに長身ではあったけれど、だからってわたしの後頭部越しに見る必要はあるかね??真横に来ないかね普通????と思ってしまって、しかもあれだけぐるぐるしていたのにもういなくなっているしで、訳がわからなくなって、もしかしてあの人もこの『新約聖書を知っていますか』が読みたかったんかな…と思って、いや、思うことにして、結局棚へ戻しに行った。今日はなんかダメな日だなあと思ったから、書店をでた。さっきの人が、本当は通りかかっていただけで、わたしが動いたから反射で動いたのかもしれない。そうだったら申し訳ない。でも見てないからわからないし、真後ろに同じ方向を向いて立っていることが意味がわからなかったし、道幅的にも人ふたりが並んで歩いてもぶつからないような距離でそうなる意味がわからなかった。特に何をされたわけでもないけれど、なんだか怖いと思ってしまった。過剰すぎると言われたらもうねっていう感じだけれど、冷静に何も言わずにその場を去ることができただけいいとした。

 そんなことがあったのでもぬけの腑抜けになってしまい、昨日は日記を書けなかった。本を一冊も買わずに帰り、その帰りにスーパーで意味もなくサツマイモを買ってきた。赤紫で大きくて、育つところまで育った、強気なサツマイモ。ダンボールで隔たれているだけで、左右で一本の値段が全く違っていた。強気なサツマイモは左の安い方だった。甘みがあるかないかは、食べてみないとわからないものだ。これで殴られたら痛いだろうな、とふと思った。明日、大学芋にしてやろうと思い、黒胡麻も買った。


 だから昨日、本は読んでいない。


 そして今朝、従姉妹からの着信で目が覚めた。近くに住んでいるもののなかなか連絡はとらず、いつもはLINEでのやりとりだったので、出た途端に『緊急事態なんよ〜!!』と言われドキドキして一瞬で目が覚めたのだけど、その事態とは玄関に蛙がいるので出られないというものだった。正直ちょっと、本当にちょっと笑ってしまいそうになったのだけど、本人は、おそらく、蛙がぴょいんと飛ぶごとに向こうで悲鳴をあげていたので、こりゃいかんと思い、すぐに車を走らせた。近所なので5分もあれば着き、あとは取るだけと思ったが玄関の鍵がかかっていて、蛙がいるので開けられないということでしばらく立ち往生し、なんとか鍵を開けてもらえたので、さあどこじゃ!と地面を見たらアマガエルが一匹、ぴょこぴょこと跳ねて、ドアを開けた途端に自ずから出てきた。捕まえて遠くの田んぼへとはなった。ごめんねえ、とカエルに謝った。怖かったのはカエルも一緒だろうと思った。従姉妹と会ったのは一年以上振りだったと思う。元気そうで何よりだった。いや、ほんと、めっちゃ元気そうだった。出勤前だったのでゆっくり話すこともできなかったが、顔が見れただけよかった。


 帰宅後、カラマの続きを読もうかと思ったが、無性にたくさん掃除がしたいと思って、鏡を拭いたり水場の掃除を特に徹底的にやっつけた。いつも気にかけて洗っていたはずなのに見落としていた部分もあって、ごめんね、と勝手に口走っていた。無心で磨いたし、捨てたし、整えた。

 綺麗になったそれらを見つめると心が軽くなった。清潔。清々しい。ガラスも鏡もくもりなし。見落としていた水垢も消滅。有り余っていたパワーで衣替えまでやった。昨日と打って変わって今日は澱んだ心を浄化していた。少しだけ軽くなった。


 最近、荒んでいるしクサクサしているしで落ち着きがなかった。だけど、大したことではないことで、これをきちんとやっておくことはわたしにとって良いことor気持ちがいいことなのでは?と気づいたことをとにかくやっていこうと思い、実践するようにしていた。結局それが掃除であったり、字を丁寧に書くことであったり、ほんっとうに大きなことではないのだけど、愛しているもの、愛したいと思っているもの、好きなことだと思っている物事が誰かの二番煎じになってしまっている、と思わないようにしたいな、と思った。

 実際、二番煎じになっていることもあったし、頑張って良い方に捉えて、愛さなければならないと思っている時もあったかもしれない。好きだし、愛せるけれど、わたしがやっているのは誰かの心や評価をなぞらえているだけで、愛さなければならないという意識のせいで、本当に愛せてはいないことに気づいてしまうことが悲しくなったのだった。

 (なぜ努力して愛そうとしているの。そんなんじゃなかったでしょ好きなことって。)という言葉が、縦書きで茄子色で脳裏にパッと浮かび、脳内で音読したのだった。

 良いことを誰かから参考として取り入れることはいいと思う。だけど、それらは初めから気づいていなければならなかったことではない。

 知らなかったことでいい。無知を恥じる必要が、もし多少あったとしても、恥じた後で、これから実践していけばいいのだとわかった。できる範囲で大事にしていけばいい。まだまだ心理カウンセラーの先生とのトレーニングも必要なのだけど、とにかく評価に怯えがちだった。何に対しても。発言も所作も何事に対しても。でも、その呪縛からちょっとだけ抜け出せるような気がしている。嬉しい。

 感情が色濃く動いた数日間。清涼な空気が通り抜けやすくなった心に、秋の冷たい風が吹き抜けていくような夜。

 二日分って長いね。どうして短縮できなかったか。せめて記事を分ければよかったなって、ここまで書いて思った。


 夜更かしをしてカラマの世界へ。

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