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後部座席にしかわからない跳ね方なんです



 朝、何時に目が覚めて、どういう生活をしたのかが朧で、ずっと読んでいたこと以外の記憶がふわふわしてしまったほど、夜にあった(つい30分前まで)出来事が衝撃的だったので、今、けっこう、おぼつかない。とはいえ、物理的なものではなくて、とある人と人とのやりとりを聞いたり参加して発言したりだったのだけど、こうもまあ、身近に、全く想像もつかないような思いを抱いている人がいるのかと思うと苦しくて苦しくて、何事もないように話ができたけれども、わたしができることが微々たることすぎて、ああ無力だなあと思いながら帰宅した。あと15年くらい歳取ってたら、もっとなんか、いいこと言えたのかなとか。

 笑っている声が震えていた、疲れが目に見えていた。だから、全ての流れに任せて、ひたすらに話を聞いた。わたしは、助けてあげたいなんておこがましいことは思ってないけれど、せめて息抜きになってもらえていたらいいなと思った。悲しくて泣いて泣いてした分、心の底から笑える日が来ますように。


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 とはいえ日中はゆっくりカラマーゾフの兄弟2を読んでいた、アリョーシャのことを考えるからかなんなのか、この物語を読んでいると、どうにかいい人間でありたいという気持ちが強くなる。できるだけ穏やかに、人を許せる人であれたらいいのに。腹を立てずにいきられれば、もっともっと優しい人になれるのかなとか、そういうのって、今まで何回も考えてきたことで、『優しい人でありたい』という気持ちはずっとある、でもまだ、はっきりとはわからないけれど、わたしの思う優しい人にはなれていないようだ。神への信仰心だとか、そういう、宗教的な話に魅力を感じるのは、そういった『優しさ』に対する少しだけ偏った執着があるからかもしれない。もうすでにカラマを読了した人たちが宗教関連の資料を読んでいるのをみて、わたしも早くそこに辿り着きたいと思っている。学びたい気持ちと時間と読むスピードがまだ噛み合っていないのだけど、ここ最近読めない日が続いていたので、まだリハビリ段階である。

 時々、タイムスリップしたかのように2、3時間が飛んでいくほど読書に集中している時があって、絵を描いているときはまさにそれなのだけど、いつもそれくらいその時すごく独り言が多くて、それはそれは多くて、(自室のみだが)今日もすごく喋っていたらしく、家族に『誰と喋ってんの?』と聞かれた。本…もしくは自分…??と喋っていた…かも…?と答えると、「本。…ふーん」と一言残して去っていった。めっちゃ喋ってるわ、と遠くで言ってた。怪しかったんだな。すまない。

 そういえば先日祖母から無花果のジャムをもらい、パンやヨーグルトに添えている。今日は思いつきでラッシー風にしてみたらとってもおいしかった。無花果を生まれて初めて食べてからまだ数ヶ月、お次はジャムとして再び相まったわけだが、本当美味しいねえ。すももでも思ったのだけれど、無花果もまた、とても感応的な果物だと思う。熟された実の柔さ。とろけていきながらも口の中に残り続ける甘味。半分に割った時の中身の集合体にはちょっとだけゾワっとしてしまうけれど。指を突っ込めばパラレルワールドに行けそうだなあと思うし、温かそうだとも思う。それがジャムになっても、もちろん甘いし、なんならもっと甘いし、官能的な全ては失われてはいないのだ。ああなんて魅惑的なのだろう。好き。

 そうやって単純に、思いつくままに、気軽に、軽薄に、好きが増えていけばいいと思う。

 明日は3巻に突入したいところ。

 

 おやすみなさい。

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