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赤黒いスープが沸いて沸いて今日のことはこれで忘れる



 嫌なことがあると辛いものが食べたくなる。しかもうんと辛いやつ。

 コロナのワクチン接種を受けてからというもの、頭痛と倦怠感が酷くて、ほとんど何もできずにいる日々が続いていたある朝、いつもより遅めに起きたことで体が軽くなっていたので、体調がちょっと元に戻った隙に本屋にでも行こうと思い、準備をしていたのだけれど、7割くらい出発準備が整ったところで、一緒に行こうとしていた人に『出遅れたから明日にしよう、もうお昼だし』と言われ、結局行かないことになった。

 私は普段、出かける時は朝早くから準備をして出かけている。お店が開店してすぐに入店することも多い。お客さんの少ない午前中に出かけて、昼過ぎには帰ってくることが多い。(その方が気疲れしないから)でもその日は用意をしていたのが11時も過ぎたころだった。でも、それでもいいから本屋に行こうと思っていた。

 一人で行ってもよかったのだけれど、テンポよく良くシャワーを浴びたり、メイクをしたり、髪を整えたりしていて、さあ後は服を着替えるだけだ、って思っていたところにそう言われたので、今までの小気味よい流れが急に堰き止められてしまったような感覚だった。『青野の好きにしていいよ、別に今日行ってもいいよ』と言われたのだけれど、

(行った方がいいのか、でもこの人は明日がいいと思っているから、今日付き合わせちゃうと相手に我慢を強いてしまうことになるんじゃないだろうか、それならいっそ明日にすればいいのか、その方が誰もストレスなくって、穏便に済むだろうし、私も本当に今日じゃなきゃ行けない、ってわけじゃないし。明日の体調はわからないけれど、明日にした方がいいのか)

などと考えているうちに、悶々とした感情のダムが決壊しそうな感覚が頭と胸に詰まってしまって、結局私は、うーん、うーん、と唸りながらも、「…じゃあやめる、明日にする」といって、予定をキャンセルしたのち、とぼとぼと洗面所に行きメイクを落としに行った。メイク前にも洗顔したし保湿もしたのにな、と思いながら丁寧に洗った。無駄に肌が柔らかく感じた。また保湿もした。

 どうすればいいかわからなくてこの結果を選んだけれど、楽しみにしていたことに対して『出遅れている』と言われたことが妙に引っかかってしまって、引っかかっていたのに何も言えなくて、我慢してしまったけれど、あの時にちゃんと『出遅れてなんかなくない?』とか、『じゃあ一人で行ってくる』とか言えていれば、こんな気持ちにはならなかっただろうか、とひとりごちていた。もちろん相手を責める気はなく、私の外出に付き合わせているようなものだったので、ただタイミングが悪かっただけだとも思った。体調もあんまりだから、情緒も乱れていた。

 嫌な気持ちの処理をできずにいると、さっきまであんなにスムーズに用意ができていたのに、もう体がだるくなってきてしまった。

 (これはあれだなあ、体調悪いから、情緒が不安定なんだな。今すぐ叫び出したい気持ちにすらなる)と考えていると、お腹が空いてきた。いやな気分になっている時は、決まって辛いものが食べたくなる。その日もそうだった。

 早速台所に行ってインスタント麺を探すと、買いだめしておいた韓国の『辛ラーメン』が見つかった。迷わず手に取り、雪平鍋に分量通りの水を入れ、沸騰するまで待っている間に冷蔵庫からキャベツと長ネギを取り出し、洗ってからザクザクと切った。そういえば乾燥わかめがあったことを思い出して、沸ききってない鍋にひとつかみ入れた。カチカチのワカメが沈んだのを見つめていると、沸騰するにつれて広がってゆき、湯の中で舞い上がっては底へ、を繰り返し始めた。沸騰した中に麺とかやくと粉末スープを入れて4分半。野菜のシャキシャキ感を残したいので2分くらい経ってから野菜を入れた。そして、今日はもう少し辛さが欲しいからと粉末唐辛子を追加。大きいスプーンでいっぱいだけ。それでも十分湯気が痛い。鼻腔を通るとビリビリした。

 鍋敷きを敷いて鍋ごとテーブルに置く。取り皿はダイソーで買ったおにぎり柄の可愛い小鉢。そこによそわれた真っ赤なスープと麺。とても強そう。

 いただきますと言ったら、ズルズルと無言で食べる。辛い。めっちゃ辛い。一口目で痛い。

 だけど、辛いだけだったはずが、食べるごとに魚介スープの味がわかるようになってきた。これこれこの味。かやくのわかめだけではわからない、わかめの出汁もしっかりでていた。黙々と食べる。キャベツと長ネギの甘味がちょうどいい。インスタント麺に野菜やわかめを入れるのはマストだ。わかめだけでも全然違う。汗が額にじわりと滲む。湯気のせいで鼻水が出てくる。辛い。舌がジンジンする。ここで水を飲むともっと辛くなるので我慢する。


 辛い。暑い、熱い。


 辛い。なんでさっきあんなに嫌な気持ちだったんだろう。自分に余裕がないだけなのに、なんでこんな傷ついちゃってるんだろう。

 辛い。熱い。鼻水止まんないし。誰が悪いとかじゃないし。でも『出遅れてる』なんて言い方変よね、いつ行こうが自由じゃん。門限があるわけじゃないし。

 辛い。目尻がじわりと熱い。『明日にしよう』とか言いながら『別に今日でもいいよ』なんて言わないでほしいよね、どっちだよ、ってなるし、その気遣いはなんか、意味ないっていうか。逆になんも言えないというか、さあ。

 辛い。だけど、だからって、私もそんな妙に気を遣わないで正直に言えばよかったな。それくらい言ったって、話し合えたよね、多分。

 まあでも明日でもいいよね。そしたら今日は午後から本読めるじゃん。こんな雨だしさ。ゆっくりできるじゃん。私も万全ではないし。

 辛い。鼻水止まんない。でも、美味しい。


 完食して、ふー、っと一息ついて、水を一気に飲み干した。冷たい水が舌の痛みを一瞬だけ和らげる。喉を冷やしながら灼熱の胃へと落ちてゆく。汗は額だけではとどまらず、頬や、首筋にも流れていた。食べる前にパンパンになっていた感情のダムは、いつの間にか引いていた。全身が温かくて、扇風機の風が気持ちよかった。

 辛さの痛みが、負の感情を癒すのではなくて相殺してくれているのだと思う。思いっきり泣いたらスッキリするのと同等くらい、デトックス効果がある。そして手っ取り早いインスタントラーメン。健康面を考えると罪悪感はちょっとあるけど、緊急事態だから背に腹はかえられぬということで。


 次の日、あいにくの雨だった。体調もそこそこだったけれど、出かけることができた。BOOK・OFFの20%オフセールは最高だった。東直子さんの短歌日記『十階』と川上弘美さんの『パレード』が手に入った。本当に最高だった。私も一緒に行ってくれた人も、楽しんだ。これでよかった、と心から思った。



  

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