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なんの比喩も見つからない晴れの日


 本が読めない、何も生み出せないことをいいことに動物園へ行った。動物と戯れて戯れて、触れるだけ触って、ちびっこたちと混ざって楽しんだ。腹の中で蠢く暗い感情や、頭にかかっているモヤは一旦取り除くことができた。

 動物に対してはコミュ力お化けとなるので、なんでも手を出してしまう、さすがに猛禽類には嫌な顔をされたし(なんかすごい、フクロウって怒ったらあんな、シャーッ!とかいうんやね)、羊は擦り寄るふりして服を食べようとするしで、可愛いんだけど嫌われたり意思疎通できてなかったりでしたが充分に動物セラピーを受けてきました。動物園まで行って猫と遊ぶ時間が一番長かった。ご時世の都合上、室内ではなく窓際から触る程度だったけれども、ツヤツヤしているしふわふわしているしみんなみんな可愛くってたまらなかった。

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 なんという可愛さ。きみ。名前も知らないきみ。すべてがまんまるでかわいいきみ。この子の写真でカメラロールがとんでもないことになっていました。(あとヒヨコ🐥)もう一匹、耳がくるんと外へカールしている猫も可愛くって、すっごく甘えん坊で、悶絶した結果カメラを回す余裕なんてありませんでした。


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 鸚鵡の『おーちゃん』。もう何年もいる。(40年以上は生きるらしい)いつからいるのだろう。記憶になくて、いつの間にかいて、見かけてからは絶対に遊んでいる。もうずっと会っている気がするのだけど、人の手にもたれて眠ってくれるくらいには仲良くなれたと思う。覚えてくれているのなら嬉しいのになあ。(年に1、2回では無理か…)勝手にとても仲良しだと思っている。


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 ペリカンの羽が綺麗で、そればっかり撮っていた。薄いピンク色をしていて、首に近づくほど濃くなっていた。嘴の黄色やくすんだ青や朱色ともうまく調和していて、ペリカンのいるところだけ柔らかに明るかった。こんな色のランプがあればほしい。知らない人が彼らにカメラを向けていると、一番近いところで羽を繕っていたペリカンが大きな口を開けて食べてやろうとしたのか威嚇だったのか、バコっと開けた瞬間にあの、下の、ポッケになる部分も大きく膨らんで、存在感が1.5割り増しにはなってて、口を開けられたお兄さんもおっかなびっくりしつつ一歩後ろへ下がっていた。

 こんなに綺麗だけど、そりゃ怒る時もあるよねえ、勝手に撮るんじゃないよパーソナルスペース超えてんなよってなるよね、そりゃそうだ、柵一枚で隔ててるだけだもんなあ。サービス精神があるわけでもなく、人の手が加わって生きている、生かされているとしても、ひとりひとり、(一匹も一羽も一頭も)性格もあるし癖もあるもんねえ、だからさっきわたしもフクロウに来るなって怒られちゃったんだよなあ、と勝手に反省した。ストレスもきっとあるだろうけれど、言葉のわからぬ人間には彼らの腹の底なんて見透かすこともできない。どこもストレス社会なのか。それともやっぱり人によっては、動物によっては天国なのだろうか。どちらでもあり、どちらでもなく、どちらでもいいし悪い。曖昧なものでできているのだよね、すべて。

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 たくさん癒されたあとで本屋さんへいく。読めないんだけどね、読めないけれども、以前友人のとある依頼でイラストを描いたのだけど、その報酬に欲しい本を買ってもらうという条件だったので、いそいそとカラマーゾフの兄弟を選んだ。他にも『小公女(KADOKAWAのカバーめっちゃいいんよ)』や堀江敏幸さんの新刊『定形外郵便』は自腹で買った。ああ。読めないんだけどね。今。読もうとしたら色々とごじゃまぜになってしまって余計に沈んでしまう。沈む場所が海であればいいけれど紛れもなく泥沼の方。今は。そういう時期。


 わたしの海は少しずつ形を変えてゆくのだ。荒れながらも広がり、深まり、削られ、埋まり、豊かにもなり、凪いでいる時だってそこに海はあるのだから、ずっとずっと果てしなくそこにあるだけでもいい、と思ってる。川は流れていってしまう。だから、わたしの中にあるのは海である。例えわたしの住む場所の近くになくっても、遠くても近くても海はここ。ワンルームの海。人間ひとりのための海。


 読書のスピードが早いわけでもないし、結構頑張って読まないと読めない時もあるし、短歌だってうまく詠めないし、なにもかもが平凡で、いやもう、平凡であることを証明したとて何もないのだけれども、嫌になる程凡人で、天才にはなれないし、泥臭くみっともなくずるずるとうだうだとぐずぐずと学びながらやっていくしかないわけで、かといってやらないでいることはできないし、それらを諦めて、本をすべて売るとか、ひたすら動画を見て過ごすとか、自分の魂を悪魔に差し出すようなこともできないしで、好きすぎていやんなることってよくあって、つくるというのは苦しくて、いやなんでこんな頑張ってるんだろうね馬鹿みたいにね、なんて自分に毒づくのだけど結局頑張るほかはなくて、助けたり助けられたりしたいわけで、薬はなかなか減らせないしで、社会はどんどん遠くなってゆくしで、ああ、大丈夫かな、3年後生きているのかなわたしは、なんて考えちゃうしで、そうしたらそんな時に助けてくれるのがまた本であり短歌であり、泥沼からなんとか這い出せるのは自分の力だし本の力だし、救ってくれるのだから、結局好きだし愛しているのだ。海は綺麗だと思いたいのだ。

 西加奈子さんの『うつくしい人』で心のバランスが崩れてしまった主人公に己を重ね合わせていたし、その中でブローディガンの『愛のゆくえ』を図書館から探し出そうとしている時にわたしの本棚に既にある『愛のゆくえ』を見つけては挟まれてもいない写真が挟まっていないかと期待もして開いてみたし、ウィンターソンの『灯台守の話』で誰にも顔合わせられなくなるほどグジャグジャに泣いて感動しては愛とは何かを考えたし、(シルバーが愛を見つけた過程には、少なからず耐え忍ばなければならない苦労があった。愛を見つけることは簡単なことではないのだ)岡野大嗣さんの『たやすみなさい』という言葉のおかげで『たやすく眠れますように』って思える、その言葉を心に灯すことができたし、笹川涼さんの『水の聖歌隊』を読んだから短歌って楽しい、美しい、詠めるようになりたいと希望が持てたし、そのあいだにはもちろん医者や友人、家族や猫の存在があって、情けない自分を正当化することもなく、情けないままで生きているうちにここまできたのだけれど、なんも持ててないので、ああもっとなんか、足りないんだ、努力とか我慢とか意思とか足りないんだと思う、泣きじゃくる必要がある。わかっている。でもいまは本当に、それすら気力がないのに、なんでこんなところに書いているのだろうと思うけれど、お酒の力もあってすらすら打っている。読書日記といいつつ読書にもなっていなくって、読んでくれている人ごめんなさい。すんごいめんどくさい人間です。

 でも悔しいの。自分に対して。悔しさが募っている。少しでも軌道修正できればと思う。


 明日からはもっと普通のことを書く。

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