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童貞や処女について考える

「童貞」というパワーワードを聞くと、思い出すシーンがある。

大学3年生の頃、所属していたサークルの部室にて。
ある同期が、新入生を相手にこう言った。

「お前んちの家系の中で童貞なの、お前だけだぞ」

唐突にふかわりょうのネタみたいなフレーズが放たれた。
僕はそのとき、「確かに」と感心していた。

考えてみれば、確かにそうだ。
新入生の彼がこの世に生を受けたのは、彼の先祖たちがみんな夜の営みに励んだからである。
彼のお父さん、おじいちゃん、ひいじいちゃん、みんなセックスしたから、彼が生まれたのだ。
彼の先祖たちを全員並べた家系図において、童貞なのは、彼だけである。

さて、その後、その後輩の童貞卒業大作戦を敢行することになるのだが、今日話したいのはそれではなく、今回のテーマは「童貞」という言葉が持つイメージについてである。

まず第一に、「童貞」というのは、性行為を経験していない男性を指す言葉だが、単にそれだけの意味ではない。悲しいかな、「童貞」は「ガキであること」「ダサいこと」「モテないこと」と直結してしまうのだ。

昔は誰もが童貞だったのに、一足先に卒業した男どもは、大人ぶった涼しい顔をして、童貞を子ども扱いしてあざ笑う。

高校時代に読んだ漫画『ROOKIES』(ルーキーズ)で、印象的だった一幕があった。
印象的と言っておきながら、もはやどのキャラのどのシーンかすら思い出せず、しかもググっても見つけられなかったのだが、大筋はこうだ。
高校野球の試合中、イケイケのピッチャーが「いくぞ、童貞」と言いながら投球し、パッとしないバッターからいとも簡単に三振を取ったのである。
それを見たとき、「童貞ってここまでバカにされるものなのか」と、当時童貞だった僕は大変ショックを受けたものだった。

童貞は「未熟者の男」を指す言葉であり、童貞は「恥の象徴」であり、童貞はときに「人権すら軽んじられてしまう」のだ。
当人にとってみればたまらない、屈辱的なレッテルである。

一方で、大学に入学するやいなや童貞卒業を目論む鼻息の荒い新入生たちの必死さは、傍目に見れば面白く、童貞にしか出せない凄みや魅力というのも存在するのだが、それはまた別のお話。


それに比べて、「処女」はどうだ。
処女の持つ言葉のイメージは、童貞のそれとは異なるように思える。
処女は「未熟者の女」でもなければ、「恥の象徴」でもないし、「人権まで軽んじられてしまう」ようなことはない。
処女は、神聖なものというイメージすら持ち合わせているから、不思議だ。

英語に置き換えてみてもそうだ。
一般的に用いられる単語でいうと、童貞は「チェリーボーイ」で、処女は「バージン」。
後者のバージンに対し、前者のチェリーボーイのなんとショボいことか。
チェリーボーイというと半人前のイメージがどうしても付きまとうし、なんともマヌケそうなワードチョイスである。

「男は最初の男になりたがり、女は最後の女になりたがる」という有名な言葉もある。19世紀の劇作家オスカー・ワイルドの名言の一つだ。
これは、男は処女に価値があると考え、一方女は童貞男の相手になることよりも相手の男にとって最後の女になることを望む、というものである。

つまり、処女に価値はあっても、童貞には価値はない。
これが、導き出された結論である。
この残酷な結論を導き出したのは僕ではなく、オスカー・ワイルド先生であることを強調しておきたい。


ところで、今は男女平等やLGBTといったテーマに、かつてない程関心が高まっている時代だ。
いつか、童貞や処女という呼称自体、死語になる日が来るのかもしれない。


おわり

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