花と椿へ

 以前からしたためていたものがある。ファンレターというよりはほぼ自分語りのようなもので、当人や運営の方に送り付けるのも憚れるので、ずっとちまちまと書いていては下書きとして残していた。今回、このように人様の目に着く場所に出そうと思ったのは、自身の中に芽生えた想いとそこに至るまでの経緯を誰かに知ってもらいたいという承認欲求と、あの八月一日の出来事を観測して、確かに何かが変わったはずの人間が、それをただの思い出として風化させないようにするための、戒めとして書いたものだ。こんなものを書いている時間があるなら、その時間を使って行動すればいいという話は最もなのだが、どうにも怠惰で保守的な自分には、あの時感じた想いを心の内に仕舞い込み、壊さぬように眺めるだけで満足してしまっているところがある。そうして何もしないまま今現在まで至ってきてしまっているので、今一度、あの時感じたもの、そう感じるに至った理由と経緯を書くことで、何もしていない今の自分に対して発破をかけ、またこの先立ち止まりそうになった時に、これを読み返して初心を思い出せるようにしようと、そう思った次第だ。人様の目につくような形にするのは、決意表明のようなこの文を晒すことで、自分の退路を断ち何とか前に進むようにしようという意味もある。長い前置きになってしまったが、そういう訳でこれは、一人の人間の視点から見た、花譜と神椿に出会ったことで生じた想いと、それにまつわる自分語りである。



 花譜と神椿への想いを記す前に、花譜との出会いと、その出会いに至るまでの自分の経緯を書いていこうと思う。

 花譜との出会いは、YouTubeで流れてきた広告が切っ掛けだった。広告で目にする以前に、某赤枠改系Vtuberのクラウドファンディングが話題になっていた際、他にもこんなVtuberの方がクラウドファンディングをしていた、というツイッターの書き込みの中で名前を見かけたことがあった。その時はそれほど興味を持たず、ライブを開催するためにこんなに支援されるほど人気のある人なんだな、という程度の感想を抱くに終わっていた。切っ掛けとなった広告を目にした頃の私は、新卒で入った会社を辞め、転職先の会社に勤めてから一年が経とういう頃だった。どうして転職したかというと、いろいろと限界だったからだ。学生時代、明確にやりたいこともしたいこともなく、度重なる就活に疲れ、内定の締め切りが迫っていたことも相まって、当時取っていた内定先の中から知っている名前だったという軽い理由で決めた会社だった。雨の中、建物の陰でその会社に内定を決める電話をしていたことを覚えている。そうして大した志しも覚悟もない状態で、やっていけるだろうと思っていた自分は甘く、そんなことでやっていけるほど甘い職場でもなかった。次第に仕事の速度やそれに合わせた生活に付いていけなくなった。パワハラ紛いのことをしてくる上司の元に異動にもなったこともあり、体力的にも精神的にも限界が近付いていた。幸い、自分は周囲の人の理解やフォローがあり、取り返しのつかないような事態にまではならなかったものの、精神的に少し落ち込んだ。落ち着いた今でこそ振り返って見れば、自分の仕事に対する姿勢や社会人としての視野や考え方、心構えが浅く狭く、悲観的になりすぎていた部分があったのだと思う一方、当時の自分はそういうふうに考えるどころではなく、周りと比べて劣っている自分に焦り、そうして起こしたミスや遅れで周りの方にフォローをさせ、それに対して自己嫌悪で頭が焼き切れそうになり、上司の態度に怯え、転職することを考えるも、ここでうまくやれない自分など、どこへ行っても同じことを繰り返すのではないかと自分で自分の選択肢を断ち、希望を持てず、ただ生きているだけで精一杯の状態だった。そうした状態、職場から逃げ出したことは、今は良かったと思っている。そこで働き続け、乗り越えることが出来れば一番よかったのだろうけれど、ドツボに嵌っているあの状況ではどうにも難しかった。結果的に、今の仕事は続けられているし、自分を責めすぎる考え方や臆病な性格とは、折り合いを付けてなんとかやっている。話がだいぶそれたが、そういうことがあって、転職してからの日々は暗い心持でいることが多かった。心が硬く鈍ったように感じられ、世界や人生は色を欠いて見えた。漠然と思い描いていた「こうあるべき」といった人生のレールから踏み外してしまったと感じていた自分は、どう生きていけばいいのかわからず、惰性で日々を過ごしていた。花譜と出会ったのはそんな時だった。

 ある朝、会社へ向かう前のことだった。自宅を出る前、スマホのYouTubeのアプリから音楽を聞こうとしてた自分は、カンザキイオリ氏の『君の神様になりたい』の動画を開こうとしていた。その頃、昔見ていた動画を懐かしみながら見漁っている際に、気になって開いた動画の中で使われていた曲に興味を持ち、原曲であるカンザキイオリ氏のその曲をよく聞くようになっていた。学生の頃にはボカロの曲はよく聞いていたが、大学に入った辺りで離れてしまい、最近の楽曲はしばらく聞いていなかった。久しぶりに耳にするボカロのその曲の、必死に駆け抜けるような音楽と歌詞が心に残り、繰り返し聞いていた。画面をタップし、開いた動画から流れる音楽に耳を傾けようとしたが、すぐに音楽は流れてはこなかった。画面を見ると暗転しており、少し間を置いてから聞きなれない軽快なドラムとギターの音が流れてきた。そこでようやく、広告が流れてきたのだと気付いた。大抵の広告は流れてきても興味のない商品の宣伝のものばかりで、五秒後に表示されるスキップボタンを押すことがほとんどだった。けれど、そのノリのいい前奏が心地よかったため、もう少し聞いてみようと思い画面をそのままに動画を流していた。

 歌声が流れてきた瞬間、衝撃を受けた。

 今まで聞いたことのないような、震えるような繊細で、それでいてどこか力強さを感じる。そんな歌声に、一気に引き込まれた。歌声もさることながら、動画の中の夜の街に現れる少女と、ビルの面に現れる金魚のような何か、それらが纏う不可思議な雰囲気にも心を掴まれた。聞き終わった後、その動画を繰り返し再生しようとしたが、家を出る時間が迫っていたため、仕方なくスマホの画面を閉じて会社へと向かった。道中、そして会社に着いてからも、動画で耳にした音楽と歌を頭の中で再生するのに必死になっていた。音楽の方は何となく思い出すことが出来たが、あの動画で聞いた歌声を流すことがなかなか出来なかった。とても印象に残る声である反面、今まで聞いたことのないようなその声を再生することが難しかった。長い間、音楽を聞かず、頭の中で誰かの歌を流すこともしていなかった自分の頭の再生機能が錆び付いていたというのもあったと思う。そうして、どこか落ち着かない状態で午前の仕事を終え、昼休憩に入って再びスマホの画面を開き、曲と歌っている人についてようやく調べることが出来た。花譜の『過去を喰らう』。それが花譜の曲で一番最初に聞いた、出会いの曲だった。そうして調べていくうちに、クラウドファンディングで募っていたライブが近くあることを知った。Vtuberのライブはおろか、普通のライブですらろくに行ったことのない自分が、絶対に行こう、行きたいと強く心に思ったのがチケット販売の一週間ほど前、「不可解」の公演まであと二週間を切っていた時のことだった。

 不可解までに、花譜の歌っている歌を聞いていた。『猛独が襲う』では、淡々と、どこか切なげに歌っている花譜に引き込まれた。先々に投稿される動画とこの曲を聴き比べてみると、花譜の歌いぶりの変化、成長が見て取れる。この頃の必死に心から絞り出すような歌声には揺さぶられる。勿論、今もそのように感じて心動かされているが、今より幼さの残るこの歌声も何度聞いてもいい。『心臓と絡繰』では、なんといってもサビの所が最高だ。歌詞や歌い方もだが、朝日をバックに佇む花譜には、なんとも言えない感情を抱く。いとをかし、最近の言葉で言えばエモいとでもいうのだろうか。花譜には時折、言葉にできない感情を沸き上がらせてくれる。『猛独が襲う』以上に淡々と告げるように歌っている『凍えそうだ』も心に残っている。詞を読み上げるかのように歌う彼女の声に聞き入りながら、テールランプだろうか、赤い明かりに照らされている花譜や背景に降り積もる雪のように浮かび上がる歌詞の演出が目と心を捉えて離さない。サビのところで一気に歌詞が大きく表示されるのもにくい。静かに歌い続ける花譜の歌声に迫力が増されるようだった。かと思えば『フロントメモリー』だ。あれは反則だと思う。それまでのどこか不思議な雰囲気を纏った少女から、一気に等身大の少女の面が垣間見れ、ギャップでどうにかなりそうだった。何より、とても楽しそうに歌っていると感じられ、聞いてるこちらも思わず気分が明るくなってくる。「単純に」と「ガンバレないよ」のところが特に好きだ。それでも、一番自分が好きな曲は出会いの曲である『過去を喰らう』だ。歌詞、音楽、動画、そしてそれらを繋ぐ花譜という存在と歌声が、ことごとく自分に突き刺さり抜けずにいる。後にも先にも、YouTubeの広告にこれほど感謝したことはない。

 ここで少し、他の話をする。以前の会社を辞めてから、世界が色を欠いて見えると書いたが、そんな中でも心に残る出来事があった。美しさに心動かされたこと、悲しみに暮れ行き場のない思いを抱えたこと、その両方あった。

 一つは『ケムリクサ』というアニメに出会ったことだった。荒廃した世界で生きている姉妹たちと記憶を失った男が出会い、安住の地を求めて共に旅をするという話だ。このアニメでは作中、姉妹たちや男がお互いの好きな物やことを尊重し、大切にしようとしていることが垣間見れるシーンがいくつもあった。好きな物があり、それをお互いが認め助け合っているその姿は、やりたいことや好きなことを見失っていた自分にとって、美しくも羨ましく、心に染みるものがあった。そのアニメの監督であるたつき氏にも、どうしてこんなにも美しいものが作れるのかと、驚きと敬意で胸が詰まるようだった。次の出来事は悲しいことで、二つあった。ボカロPのwowaka氏の訃報と京都アニメーションの事件だ。wowaka氏は自分が学生の頃によく聞いていたボカロPの一人で、『ローリンガール』を始めとしたテンポのいい爽快な曲が好きでよく聞いていた。ボカロの曲を聞くことが少なくなっていても、青春時代を彩ってくれたwowaka氏の曲は思い出の曲として心に残っていた。それだけに、その曲たちを作ったwowaka氏の突然の知らせには呆然とした。京都アニメーションは、アニメについて詳しくない自分でも知っているほどのアニメ制作会社で、被害の全貌が日に日に見えてくるにつれ、悲痛な気持ちに包まれていった。これらの出来事は自分の中に黒い影を落とした。wowaka氏も、京都アニメーションの方々も、自分の好きを突き詰め磨き上げ、見事それを叶えてこれから先も輝いていくはずの人たちだった。多くの作品をこれからも作り、人々の心を動かしていく人たちだった。そんな人たちが、早くしてこの世界から旅立ってしまったことに悲しむと共に、なぜ何もせず、のうのうと生きている自分がここにいて、その人たちが行かなくてはならなかったのかという思いがこみ上げていた。wowaka氏のバンド活動をそれまで知らず、それを今まで応援していた訳でもなければ、京都アニメーションの作品を特別追いかけていたという訳でもない。それどころか彼らと少しでも接点のある物、そしてそうでない物ですら何一つ成してこず、成そうともしなかった自分がそんなことを思うなど、そもそも間違っている、おこがましい。そう思いながらも、考えずにはいられなかった。

 これらの出来事は、沈んでいた自分にとって、良くも悪くも心が動いた出来事だった。『ケムリクサ』は好きという気持ちを尊重し、見つけていく作品であり、wowaka氏や京都アニメーションの方々は、自分の好きを突き詰めていった人たちだった。そのことがどこか心に引っかかりながら、それでも代り映えのしない、自分を変えられない日々を過ごしているうちに、またある出来事があった。

 今いる会社で、会社紹介用のPR動画を作ろうという話が持ち上がり、その撮影に参加することになった。撮影をするにあたり、社長がはりきり、撮影をする方やアクションをするスタントの方などを外部から招き、本格的な撮影会となった。そうして当日、自分が出るシーンを撮り終えた後、休憩室替わりに使用している応接室で休んでいる時のことだ。先ほどアクション指導をしてくださり、撮影を共にしたスタントの方が休憩のために部屋に入ってきた。その方は自分との撮影で終わりという訳ではなく、他の場面でも登場するため会社の建物内を移動してはアクションをこなし、撮影を続けられていた。少し疲れた様子をしていたそのスタントの方は、水を取り出して飲み始めた。その時、その様子を見た自分は「大変ですね」とその人に声を掛けた。ただ単純に、ハードなアクションの撮影をねぎらうつもりでの言葉だった。一緒の撮影の時にだけしか動いていない自分がこれほど疲れているのだから、プロの方でもそんなに続けていては大変だろうなと思った。
 スタントの方がその言葉をどう受け取ったのかはわからない。自分の言葉を聞いたスタントの方は、ただにっこりと笑って一言、「好きなことを仕事にしてますから」と言った。それを聞いて、思わず言葉に詰まった。その日まで自分の心に引っかかっていたことを、直接目の前に突き付けられたような気がしたからだった。今日その日まで見てきた「好き」ということに関係する出来事。それらを受けてどうしたらいいのかわからず、俯いてばかりだった自分に、その人の言葉と笑顔、在り方に、道を指し示されたような気がした。そうしてその日の撮影と仕事を終えた夕方頃、自分は会社を後にし、ある場所へと向かった。新宿にある映画館、バルト9で行われるライブビューイングを見るためだった。その日は八月一日、花譜のファーストワンマンライブ「不可解」の公演の日だった。

 出来すぎだ、と思う時がある。こうして振り返ると、まるで世界から何か問いかけられているような、そんな気持ちになる。何となくで想定していた道から外れ、迷っていた自分に対して、何かがそれとなく道を指し示しているんじゃないのかと。けれど、実際はそんなことはないんだろう。一つ一つの出来事は独立したもので、それに自分が勝手に意味を見出し、勝手に繋がっているかのように感じているだけなんだと。でもそれは、自覚していなかっただけで、そう感じるだけの何かが自分の中にあったから、繋がりのないそれらの出来事の中から共通のものを見出し、心に残っていたんじゃないだろうか。そして、その自分の中にあった何かを決定的に自覚させてくれたのが花譜であり、不可解だった。

 映画館に着き、スクリーンのある部屋に入った。会場時間ギリギリの館内には、すでにの観客で席が埋まりつつあった。前列中ほどの席だったため、席についている人の前をお邪魔して席に着いた。スクリーンでは他のVの方々の応援メッセージが上映されていた。記憶に強く残っているのは限界観測者代表ことAZKi氏と、にじさんじの佐々木咲氏だった。AZKi氏のプロポーズかと言わんばかりの熱烈なメッセージと反対に、笹木氏はフードとピンク髪が共通点だから同じもの同士頑張って、という感じの緩い応援メッセージを送っていたのを覚えている。余談だが、不可解の後日、笹木氏の替え歌『笹木は嫌われている』を聞いたが、すごい子だと思った。笑っていいんだよねあれ。そうして応援メッセージが流れ終わると、館内が暗くなり、いよいよ公演が始まった。神秘的な映像と共に紡がれる『少女降臨』、ロックテイストにアレンジされた『糸』、しっとりと美しい『エリカ』とポップでキュートな音楽と映像、振り付けの『未確認少女進行形』の新曲二つ(まさか二曲続けて新曲が来るとは思わず驚いた)、身動きが取れなくなるほど度肝を抜かれた大森靖子氏の曲『死神』のカバー、リミックスアレンジで最高にノリのいい曲になっていた『夜が降り止む前に』、懐かしさと映像に涙した『夜行バスにて』、そこからのつなぎでテンションMAXになった『過去を喰らう』、フィクションなのかリアルなのか、一体何を見せつけられているのかと固唾を飲んだ『御伽噺』。一つ一つ上げるとキリがない、それほど素晴らしい出来事だった。映画館のスクリーン越しのステージで繰り広げられるその映像と演出、そして朗々と歌い上げていく花譜に釘付けになっていた。そうして最後に歌った曲『そして花になる』。映画館で聞き、不可解の後に投稿された動画で聞き、花譜の何たるかを知った曲だった。歌うことが好きな一人の少女が、好きなことを好きと歌うその姿は、自分が今まで見て感じてきた出来事、世界から指し示されていたかのような道を、そのまま体現しているようだった。誰かのため何かのため、何かをすべきだとかしなくてはいけないとか、そういったことではなく、ただ純粋に自分の好きな事を好きだと歌っている。そんな姿が何より輝いて見え、美しく見えた。それはかつて、自分が羨みながらも無理だと、奇麗事だと、最初から諦めていた生き方だった。そうして流されるように生きてきて、何となくこういうもんだと思っていた道から外れて、目標もなく生きていた自分にとって、花譜という存在はそのままどこまでもそうあり続けて欲しい、好きなことを好きにやって好きに生きていってほしいという祈りを胸に抱くには十分な存在であり、出来事だった。その後、程なくしてリリースされたアルバム「観測」に同封されていた寄稿文を読んだ時、それはより強いものになった。PIEDPIPER氏の花譜に対する想いに共感したからだ。一個人の可能性を使い潰すことなく、本人を守りながら広げようとするその姿勢が、何より望み、願っていたことだった。自分の好きを追求し、体現している人たちが悲しい目に合うことは、自分が見てきた出来事以外にも沢山ある。Vtuberのシーンにおいてもそれ以外の世界でもそういう出来事があり、嘆いてばかりだった自分にとってPIEDPIPER氏のその考えもまた、そうあって欲しい、あり続けて欲しいという祈りを抱くものだった。

 今日から明日の世界を変えるよと、不可解で花譜は言った。その言葉通り、自分の世界は確かに変わった。正確にいうと、世界を見る目が変わった。色あせ、無味乾燥に思えた世界が、今は彩られている。それは花譜という存在が、希望に満ちた可能性が行くこの先の世界を見られることへの喜びと、自分もまた好きのために生きてもいいと思えるようになったからだと思う。けれど、変わった世界に対して、自分自身がまだ変われていない現実がある。自分が思っているほど本気ではないのか、あるいは躓き傷付き失敗することを恐れているのか、世界を変えてもらっておきながら現状維持に甘んじている自分がいる。自分の殻を破れていない。そういう怠惰で惰性な日々を過ごしてしまっているために、このようなものを書いた。花譜への想いの源泉を忘れないため、自分がどうしてここまで花譜が好きになったのか、その理由と経緯を、日々に埋もれて忘れてしまわないようにするために。



 以上が、花譜と神椿に対する想い、そしてそれを抱くに至った自分の話だった。こうして今日までの軌跡を書きなぐるのに、随分と時間がかかってしまった。これだけ取っても、自分がいかに手の遅い人間かというのが知れる。それでも、どんなに遅くても、拙くて見苦しくても書きたかった。その理由は初めに書いた通りだ。これはある意味、自分にとって世界に対して掲げる宣戦でもある。自分を取り巻く世界が変わっても、肝心の自分が変わらなければどうにもならないというのは、花譜に世界を変えられてから今日までの自分や、転職してからのことを振り返ってみても言えることだ。それに今、この閉塞感に満ちた世界になってから気付いたことでもある。少しも影響を受けないとは言えないけれど、世界が変わる前後で、自分の中に抱えている悩みや不安の根源の大きくは、変わらないことに気付いた。それは世界が変わったからこそ、自分の中にある変わらない願いや、本当に向き合わないといけないものに気付いたのだと思う。花譜と神椿に変えられた、変えてもらった世界。ここ数か月で変わった、変えられた世界。それらに対して、自分もそうありたい、自分の好きで以て挑みたい、本当に向き合わなければいけないものと向き合いたい。そういう意思表明を込めて、これを書いた。

 花譜と神椿、そしてそれに携わる全ての方の進むその先が明るく、希望に満ちたものになることを祈っています。どうかこの先も、好きを大切にするというその心を持って、好きなように進んでください。ありがとう。

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