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靄とケープ

薄く暖かいモヤに包まれたようだ、と思った。

いつも外側にも内側にもトゲが付いているケープを纏っていたのだと気がついた。
寒い寒いと言いながら、ケープで必死に身体を暖めようとしていたが、ケープの効果は周りの人や自分自身の涙を出すというもので、身体を暖める目的のお品ではなかった。

そんなもので身体を包まずとも、ケープを脱ぎ去ってしまえば暖かい靄が私の周りを包んでいたのだ。

靄は私の頭から手や足の先まで包んでいる。
指先で触れようとすると、その身体の動きによる風でふわりと逃げてしまう。なので手で触れて確かめることはできないが、靄は軽くて柔らかいもので、私の意思によってその形を変える(強風の時に外に出てみたが、靄は風に流されることはなかった。それでわかった事実だ)。

靄に包まれていることを認識し、それが暖かいこともわかった。この事実には今まで何回も気が付いたことがある。しかしそれを普段忘れてしまっている。

靄に包まれていること。それを忘れてしまうこと。ケープなど身につけたくないのに気が付いたら纏っていること。いつもこの繰り返しだ。
繰り返しに気付くのはいつもケープを脱ぎ捨てたあとで、悲しくなる。
悲しくなった私に靄は言葉ではないもので語りかけてくる。
言葉ではないので、ここには文字起こしできないのがもどかしい。しかしそれは私をとても安心させてくれるものだ。

ケープを身に纏ってしまったとしても、靄は変わらず私を包んでいる。だから身体はケープのトゲで痛くとも、暖かさは変わらないはずだ。しかしその時、私は靄の存在を忘れているので寒い寒いとますますケープをきつく身体に巻いてしまう。ケープを巻きつけているのは私の意思なので、靄はケープのトゲのある箇所に穴を開け、ケープのトゲが直接私に突き刺さってくる。そして私は涙を流す。

ケープがある時と、ケープが無く靄のみに包まれている時。どちらが自然な日常なのだろうか。

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