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冬優子のG.R.A.D.コミュはハッピーエンドなのか?【シャニマス】


こんにちは、aonoriです。今回は冬優子G.R.A.D.コミュの感想について。

先ず率直な感想としては、めちゃくちゃ良かったです。G.R.A.D.出場を控えた冬優子に密着取材の依頼が入るところから始まり、両方の仕事を完璧にこなす姿からは彼女の成長と強さを感じました。またプロデューサーとのやり取りからは2人の関係性がさらに深いものになっていることが見て取れましたし、コミュ『迷光を纏い直す』で禅問答を繰り返す姿はとても可愛いかったです。

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G.R.A.D.編から新しく追加された表情。かわいい。


しかし私にはひとつ疑問があります。

冬優子のG.R.A.D.コミュは『ハッピーエンド』で終わったのでしょうか?


1.冬優子は"本当の自分"を愛することなく終わるのか?

きっかけは、G.R.A.D.終盤のコミュ『ひとりじゃなくてふたり』における次の冬優子のセリフです。

ふゆが、ふゆのままじゃ愛されないのは悲しいけど
ふゆが作ったふゆが、たくさんの人に受け入れられるのは気持ちいい
どうしたって痛いし、どうしたって幸せで_
そういう歩き方にするって決めたのはふゆだから

このセリフ、冬優子の覚悟が感じられるカッコいいセリフなのですが、同時にとても悲しいセリフだと思います。冬優子はW.I.N.G.編の時から「素の自分じゃ愛されない」と決めつけ、それを受け入れてしまっています。そのため彼女は猫を被り、人に好かれるように振る舞って生きてきました。

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冬優子が今の性格に至った根本的な経緯はあまり語られていませんが、過去に起きた何らかの出来事がトラウマになっているのではないか?と推測しています。コミュ『迷光を纏い直す』で学生(高校生?)の冬優子が猫を被っているシーン(回想)があるので、それよりももっと前の時系列で何らかのトラウマを抱えたと私は考えています。

冬優子の「猫を被る」という行為はW.I.N.G.を経て「理想のアイドル像を追求する」というスタンスに昇華し、それは彼女のアイデンティティとして確立しましたが、素の自分に魅力が無いという考えは変わっていません。彼女がこのまま「ふゆ」として成功していった場合、「ふゆのままじゃ愛されない」という言葉が彼女の中でどんどん肯定され、素の自分を愛することができないまま終わってしまうのではないか。私はそう考えていました。

恐らく、プロデューサーも同じことを悩んでいたのではないかと考えています。冬優子は覚悟とプライドを持って「ふゆ」を演じていますから、そこは絶対に否定したくないでしょう。しかし素の自分に魅力が無いと言う彼女をそのままにしておくことはできないはずです。何故ならプロデューサーが最初に見抜いた冬優子の一番の魅力は「内に秘めた熱意」であり、それは紛れもなく"素の冬優子"が持っているものだからです。

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別のコミュでプロデューサーは「冬優子には人を奮い立たせる力がある」と言っています。冬優子が持つ「まっすぐに気持ちをぶつける姿勢とその目」が、彼女を見た人を奮い立たせているのだと思います。


2.ハッピーエンドは、もう少し先。

冬優子のG.R.A.D.コミュは、プロデューサーが冬優子の強さと覚悟を思い知り、「ふゆ」に対する認識を改めるお話でした。今回のコミュで冬優子の"素の自分に魅力が無い"という考えは変わっていません。しかしG.R.A.D.が終わっても冬優子とプロデューサーの物語は続いていきます。いつか冬優子が自分の過去を振り返り、猫を被る根本的な原因と向き合う時が来たとしても、この2人なら必ず乗り越えられるはず。なので今回のコミュは「HAPPY END」ではなく、「To Be  Continued」なのだと思います。

素の自分なんて、わざわざ晒さなくてもいい。でも「ふゆが、ふゆのままじゃ愛されない」なんて言葉は、あまりにも悲しすぎるから。

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私は"素"の冬優子の方がいきいきしていて好きですし、一番魅力的だと思います。(個人の感想です)


*後書き*本記事の解釈には、私の願望や妄想が大いに含まれていると思います。なので「こういう考えの人もいるんだ」という認識で読んで頂けたら幸いです。また「そこの解釈は違うと思うよ!」、「そこは私はこんな解釈だよ!」等の意見がありましたら、コメント等で教えていただきたいです!(2020/08/02:一部誤解を招きそうな表現があったため変更しました。)

最後まで読んでいただき、本当にありがとうございました。

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