半分だけ

半分、曖昧、中途半端、灰色、青二才。
境界的で不安定なものが私は好きだと思う。溶けかけてぐずぐずになった雪だとか、悲しい癖に笑っている人だとか、囚われてることへの反動形成から偽悪に染まる人間性だとか、遍く概念・スコープにおいて、ともすれば脆く繊細なバランスで保たれたものに美を感じる。

某日、早朝から電車に揺られ、バスに乗り継ぎ、それから数キロ歩き、とあるお寺を目指していた。物語のロケ地にもなったような有名な半壊した寺。世間では共通テストで賑わっている日であった。タイムラインで何度か見かけたことがあったので、存在自体は知っていたが、能動的に訪れるきっかけがなく、なんとなく他の人が訪れてるから別に自分が見に行かなくても良いと思っていたのだが、とある尊敬する撮影者の方から、良かったという話を伺い、直接見てみたいと感じた次第だった。当日はいつ雨が降り出すかという曖昧な雨模様。

私は好んで、廃集落やら過疎集落やらを訪ね回っている人種の為、こういった壊れた家屋や風化した神社はそれなり見てきた。けれども、此処を見た時に素直になんて美しい壊れ方をしているのだと感じた。それは罰当たりな発想である様に自戒の念も働くもなかったが、この崩壊には何か荘厳で神憑り的なそういったものを感じた。

宗教、信仰的な存在を私は否定しない。自分自信が、幼少の頃に自分で設計した神様を信仰しているからだ。これも曖昧模糊で、存在の無い可変式の神様だ。これは熱心に神仏について信仰・研究している方々からはお叱りを受けて叱るべき不熱心さの自覚はある。けれども己が中に信仰に似た掟を持つことは自分を固定する上でとても重要なことなのだ。

二十三夜。十九夜。月齢を異にする月待講が開かれていたことからも、ここが長い時間をかけて多くの人が集ってきた証だろう。建物に着目してみる。

余り着目されることが無いが、蟇股がそれぞれに個性のある作りになっていて面白い。

鬼瓦。剥がれ落ちてしまっているので、想像が出来ないが相当大きい気がする。

併設して神社もあった。冒頭に申し上げた境界的な理由から神仏習合の考え方が自分は好きなのだが、実に自然に両方が存在している印象を受けた。規模感からすれば鎮守社かな。

こちらは国指定重要文化財の楼門。楼門なのに平屋建て。
周囲ののどかな風景の中でかなりの存在感を放っている。
楼門は一般に二階造りを想定するそうだが、こちらは、二階を造りながら途中で何らかの理由で断念した三間一戸楼門という形態だという。

季節を忘れた様に花が咲きかけていた。
私は境界的なものが好きだ。
二階でありながら、そうでないような
雨でありながら曇っているような
崩れているようで、未だ荘厳であるような、
神仏分離がなされる以前の、普遍的だったような、

そういう意味でいうと、共通テストの日に訪れたのは正解だった様に思う。多くの人にとってとても大きな分岐点である様な日に。

なんて美しい崩れ方なんだと感じた時、不謹慎であると心が叱った。
けれども、誤解を恐れずに書くのであれば、

私は腐敗が愛しい。けれど終わり行く、消えゆくものを追いかけることは
終わり行くこと、消えゆくことを肯定することとは意を異にする。

きっと、この寺は途方もなく長い時間をかけ、
様々な人に見守られ、また様々な人を見守ってきたのだろう。
そうして、沢山の人を見送ってきたのだろう。

緑は生命の象徴によく例えられる。
しかし緑が芽吹くことは、きっと建物としては一つ終わりに近づくことだろう。

此処を訪れて本当に良かった。

廃集落を訪ねることにずっと躊躇いがあり、それは今も消えない。
けれども、この寺を探訪して、一つ自分の中で答えが出た様に思った。
多くを看取った存在を、せめて看取りたい。

半壊し尚も丁寧に手入れをされているその姿を眺め、
そう改めて思った。
境界にあるものはいつだって果敢ない。

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