「いじめ」ってのはね、自らに「賢いヒト=ホモ・サピエンス」という御大層な学名を付けた肉食性のサルが、生まれながらに持っている生き残りのための本能なんだよ

考察テーマ

『イジメ』と呼ばれる加害行為の原因について、既存の心理学や社会学とは違う視点から考えてみました。

中学生の時に、ちょっとしたイジメに遭ったことがあります。
ただし、自殺を考えたり、酷い心の傷を負うほどの深刻なものではなく、今となっては誰しもが持っているであろう『子供時代の不快な記憶』のひとつにすぎません。
クラスになぜか私を目の仇(かたき)にする同級生がひとりいて、何かといえばバカにしてからかう、背後から不意に頭を叩く、教科書やカバンを隠すといった、小学生レベルの嫌がらせでしたが、それでも毎日やられ続けると、心にこたえます。
その時に、一番嫌悪を感じたのが、その同級生の表情でした。
私が痛がったり、カバンを探して困っているのを見て、彼はニヤニヤと笑っていました。
心の底から楽しそうに。
よく安物の学校ドラマで、イジメをする生徒は家庭に恵まれずに、その苦しさを他人にぶつけてしまったんだ、なんて言ってるのがありましたが、あれはひどい嘘ですね。
もしそうなら、あんな楽しそうな顔はできるはずがありません。
それに、彼の家庭に問題があるとか、生活が苦しいとかいった話を聞いたことはありませんでした。
その同級生は明らかに、そんな事とは関係なく、イジメをすること自体を楽しんでいるように感じられたのです。
翌年には別のクラスになったので、私への嫌がらせは終りましたが、彼は自分のクラスで気の弱い生徒を見付けて、同じことをしていたのを見た記憶があります。
その同級生のことは、中学卒業以後は忘れていました。
というより、思い出したくもないことだから、無意識のうちに記憶のゴミ箱に捨ててていたのかもしれません。
幸いなことに、それ以後は、友人にも恵まれましたし。

思い出すことになったのは、学校でも社会でも悪質なイジメが頻発(ひんぱつ)し、その原因について心理学者・社会学者・教育評論家などがテレビで語るのを見たときです。
彼らが語るイジメが行われる理由は、相も変わらず競争社会のストレスといった現代病か、両親の愛情の欠如といった家庭問題、あるいは学力至上主義の行き過ぎや学校の閉鎖性といったといった教育システム上の問題で、つまりは成育過程での心理的抑圧や、過大なストレスまたはトラウマの代償行為であるという考えが通説になっています。

でも私は、それに対して非常に大きな違和感を持ちました。
家庭に問題があってもイジメなどしない者もいるし、問題などないのにイジメをする者もいる。社会や学校のシステム上のストレスなら、全ての者が受けています。
もともと代償行為説というのは、人は生まれた時には純真無垢(むく)な存在であるという前提の上に立っているものです。
本来は他者を傷付ける悪意など持っていないはずの『人という善良な存在』が、あるいは『無垢な子供』が、イジメという陰湿で残酷な悪をなすのだから、よほどの心理的圧迫もしくは心の傷を負ってしまったのだろう―――ということですから。
でもこの前提は、白々しいほどのきれい事です。
少なくとも私は、自分の子供時代を顧(かえり)みて、自分が純真無垢な存在だったとは思えません。
子供には子供なりの欲やズルさがあるのは当然です。

子供が純真に見えるから、あるいは人の本質が善だと信じたいからといってそれを基盤にものを考えるのは、空を見上げて太陽の方が動いているように見えるから、あるいは、この世界は神が人間のために作り給うたものだからという信仰を基盤に、太陽が地球の周りを回っていると信じたかつての天動説と同じです。

仮に原因を代償行為説の通り社会病理的なストレスや心の傷と仮定しても、ではなぜ自分より弱い者(少数者・不利な立場にある者なども含む)を虐待するという、人間の倫理において最も卑劣で醜悪(しゅうあく)とされる行為が、ストレスの解消やトラウマの慰めをもたらす代償行為になり得るのか、という疑問が生じます。

もし性善説の通り人間の本質が善であるなら、自分の心にどんな傷があろうと、そんな低劣で残酷な加害行為によって慰(なぐさ)めが得られるなんてことがあるはずはないでしょう。
『心の闇』なんて便利な言葉もあるけど、あれは人間が時として見せる残忍な嗜虐性(しぎゃくせい)の真の原因が解明できていませんと言ってるのと同じです。

その時思い出したのが、イジメをしていた同級生の楽しそうな顔でした。
彼の表情は、ストレスや自分の苦しみを転嫁するというより、他人を傷付ける行為を、面白い遊びのように、楽しんでいるように見えたのです。
当時はその同級生だけが特異な性格の持ち主だと思っていましたが、悪質なイジメが社会問題化するほど多発するということは、必ずしもそうではないということでしょう。

そこで私は、社会学や心理学の通説を離れて、そのことを起点に『イジメ』という加害行為の本質的原因を考えてみることにしました。

もし人間に弱者をイジメることを楽しいと感じる感覚が存在するなら、それは社会や学校や家庭といった外的かつ後天的な現代病的要因ではなく、私自身を含めた『人間という生きもの』の内側に、もともと弱者を攻撃することを好む性質が、先天的かつ普遍的(ふへんてき)に存在することになります。

たとえばパソコンゲームで、シューティングゲームや格闘ゲームが多くの人に好まれるのは、かつて古代ローマの闘技場で人々が剣闘士の戦いに熱狂したように、戦いというものに人間が昂奮(こうふん)を感じるからです。
それは、キレイゴトの性善説とはうらはらに、人間の祖先が自然界に身を置いていた太古の時代に培(つちか)われた狩猟本能や闘争本能の名残(なご)りだとされます。

ではイジメという行為も、何かの本能の名残りではないのか?  そう仮定を立ててみました。
もしそうなら、人間に近い霊長類、つまりチンパンジーやゴリラの群れにも、似たような行為があるはずです。
『群れ』は彼らにとっての『学校兼社会』だし、野生生物である彼らの方が、本能はより強く持っている。そう思って、図書館で動物行動学や類人猿の観察記録の文献を片端から読んでみました。

チンパンジーは、一日中お互いに毛(け)繕(づくろ)いをして、仲良く平和に暮らしているというイメージがありましたが、実際にはかなり凶暴な面があって、群れの内での集団リンチや子殺しは珍しくありません。
ただそれは群れの内での序列を乱した者への制裁や、力の衰えたボスを追放するためで、人間のイジメのように、群れの内の特定の弱者を狙って執拗に攻撃し続けるといった事例は見当りませんでした。

考えてみれば、マスコミでもずっとイジメ問題は取り上げられているのだから、サルの群れに全く同じ行動があれば、類人猿を専門とする動物学者が、とっくにそれを指摘しているはずです。
見当違いの仮定だったかと思いましたが、それらの観察記録本の中にあった、チンパンジーの群れが木の上で果実を食べている写真を見て、気が付いたことがありました。

私たちホモサピエンスと他の霊長類とは、四〇〇万年ほど前に同じ祖先から枝分かれしたといわれています。チンパンジーとホモサピエンスの遺伝子レベルでの差は、わずか数パーセントでしかありません。
そしてどちらも群れや社会を作り、集団の中で生活します。人類のルーツを探る古人類学者の中には、チンパンジーの群れの行動を観察することで、人類の進化の過程を解明するヒントが得られると考える人もいます。

けれど一方で大きな違いもあります。
そのひとつが食性です。
ホモサピエンスも、チンパンジーを含めた他の霊長類も、分類上は共に雑食性、つまり植物も他の動物の肉も食料とします。でも現在のサルの大半は、主に果実や植物を食べます。タンパク源として動物も食べはするけど、それは主としてアリのような昆虫です。

チンパンジーは以前考えられていたより肉食性が強く、生息地によっては自分より小型のコロブスという種のサルを捕食するし、他の群れを襲って子供を喰ったりもしますが、それでもライオンやオオカミといった完全な肉食動物のように、大型の草食動物を狩って主たる栄養源とする習性までは持っていません。

一方でホモサピエンスは、はるかに強い肉食性を持っています。
よく石器時代のイメージイラストで、毛皮をまとった原始人の群れが、石オノや弓矢を手にマンモス狩りをしているのがありますね。 事実、発堀されている石器の大半は、矢じりや槍の穂先といった狩猟道具か、仕留めた獲物の肉を切り取るためのナイフです。
今だって私たちは、野菜や果実よりも肉料理を好みます。
つまりホモサピエンスは、飛び抜けて肉食性が強いサルだったということです。

この食性の違いは、群れの最も重要な構造要素に大きな違いを生みます。
それは、群れの内での序列が持つ意味です。

誰でも知っていることですが、チンパンジーを含むサルの群れには、頂点にボスがいて、その下に二位から最下位までの厳格な順位があります。
肉食性が低い普通のサルの順位の意味は、基本的に生殖の優先順位です。つまり上位の強い個体ほど、より多くの子孫を残すことができる。
二位以下はボスの座に近付くための階段です。
それは確かに重要なことだけど、それぞれの個体の生死には直接関係がありません。

一方で、群れで狩りをする肉食動物、例えばオオカミやハイエナの群れにおける順位の意味は全く違います。
順位の上下は、それぞれの個体の生死に直結しています。
なぜならば、それは狩った獲物を食う時の順番だからです。

果実を主食とするサルに、食事の順番はあまり必要性がありません。季節が来れば木々に多くの実が生るし、タンパク源となるアリの巣は、森の中を捜せばいくらでもあります。
でも肉食獣は完全に違います。狩りをして得た獲物だけが食料の全てだからです。
しかも狩りの成功率は、最も高いとされるライオンやハイエナでさえ約四十パーセントでしかありません。ようやく得た獲物も肉の量は限られているし、栄養価の高い内臓は更に少ないのです。
それをどの個体がどれだけ食うのか?
もちろん強い個体が弱い個体を押し退けて好きなだけ食べ、弱い個体つまり順位の低い個体ほど食べられる量は少ない。当然のことながら、平等の精神は、自然界にはありません。
結果として、強い個体はより多くの栄養を得て、より強く、大きくなれる。病気への抵抗力、ケガからの回復力も強まり、より有利な生存条件を得られます。
一方で、弱い個体はその逆です。十分な栄養を得られず、死に近い不利な生存条件に甘んじるしかありません。時にはそのまま淘汰(とうた)されてしまいます。
それは群れの内側における厳しい生存競争です。

つまり野生の肉食獣にとって、食事の順番――つまり群れの内の順位は、単に空腹を満たす順番ではありません。
自分自身の生命の優先順位そのものなのです。
上位の個体ほど生き残れる確率が高くなり、下位の個体ほど低くなる。逆に言えば、上位の個体は死から遠ざかり、下位の個体は死に近くなる。
当然どの個体も死にたくはない。全ての生物にとって、自らの生き残りこそが至上命題です。全ての生物の生存本能は、そうプログラムされています。
だから群れで狩りをする生き物の生存本能は、単に子孫を残すためだけでなく、それ以上の切実さをもって、少しでも有利な生存条件を得るために、ひとつでも上の順位を確保することを求めます。

しかし、自分より強い個体には刃向えません。
野生動物の群れにおける序列は、サルにおいてもオオカミにおいても、人間が考える以上に厳格なものです。
知能が高く優しい生物だとイメージされているイルカにさえ、群れの中での順位争いによる暴力的行動があるといわれるほどです。

上位者に刃向って、勝てれば順位が逆転するが、負ければ群れを追放されるかもしれないし、群れの序列を乱したとして集団リンチに遭うかもしれない。チンパンジーは、そうしたリンチで群れの仲間を殺してしまうこともあります。
死を免れたとしても、大ケガをして障害を負えば、生存条件がより悪くなる。だから順位を上げるには、上位者が衰えるか、ケガなどで弱るか、スキを見せたチャンスを、虎視眈々(こしたんたん)と狙うしかありません。

一方で、今の自分自身の順位も安定したものではありません。
自分が上位者の凋落(ちょうらく)やスキを狙っているのと同様に、自分より下位の者も常に上位に行くチャンスを狙っています。

つまり今の自分の順位も常に狙われているのです。
下位者に引きずり降ろされないためには、下位者に対して、常に自分の優位を思い知らせておく必要があります。

オオカミの群れにおいては、頻繁(ひんぱん)にあることのようです。
上位にある個体が、観察者から見れば特に理由もなく、下位の個体に対して攻撃的な行動をとる。
噛みつくことまではしないが、威嚇(いかく)したり、体当りを食わせたりする。
下位の個体は抵抗せず、鳴き声や特定の動作で服従の意を示す。
つまり、上位者は自らの順位を維持するために、下位者への攻撃的行動をとるのです。

もちろんホモサピエンスは100パーセント肉食ではありませんが、動物の肉は最も重要な栄養源です。
チンパンジーの全栄養源における肉の比率は約5パーセント、それに対して現在の私たちの食生活では平均して約20パーセント。
ホモサピエンスおよびその直系の祖先が、栄養価の高い穀物を安定して得られる農耕を知らず、飢餓(きが)と隣り合わせの狩猟採集のみで食料を得ていた太古の時代には、肉の比率と重要性は遥(はる)かに高かったはずです。

古人類学のある説では、人類の祖先は狩猟だけでなく、ハイエナのように動物の屍(し)肉(にく)を食料にしていた可能性もあるとされます。
確かに人類が火を使って調理をすることになったきっかけは、山火事などで焼け死んだ動物の肉を食べてみたら生肉よりも食べ易かったから、という説もありますから、従来から屍肉を食う習性を持っていたことになります。
他の霊長類に、そこまでの肉食性を持つ種は存在しません。

強靭(きょうじん)な筋肉を作るためのタンパク質、エネルギー源であると同時に、皮下に畜えられて体温の低下を防ぐ脂肪、内臓機能や免疫力を保つビタミン類、これらを最も効率よく摂取できるのは動物の肉と内臓です。これをより多く食える個体がより頑健(がんけん)な肉体を得ることができ、より生き残れる確率が高くなる。

だから当然、肉食の比率が高いほど、太古における『ホモサピエンスの群れ』においても、順位が持つ意味は肉食動物のそれに近くなるはずです。
弱い者を下位に押し退けておけば、その分先に、より多くの肉を喰える。より多くの栄養を得て、その分死から遠ざかれます。

だから人間が文明社会を作り出す遥か以前、ホモサピエンスが狩りをする野生のサルであった時代には、当然他の肉食獣と同様に、各個体の力の強弱によって群れの中の順位、すなわち生き残るべき生命の優先順位を決めていたはずです。

そしてその順位を維持するために、自らの優位を思い知らせるための攻撃的行動を、下位の弱者に対してとっていたはずです。

以上のことから、現在において『イジメ』と呼ばれている弱者に対する加害行為の真の本質とは、自らに『ホモサピエンス』、すなわち『賢(かしこ)いヒト』という学名を付けた霊長類の一種が、その『群れ』の内でより有利な生存条件を確保して、自らの生き残りの可能性を高めるために、生まれながらに持っている生存本能であると結論付けることができます。

ヒトの脳の奥底には、まだそれが消えることなく残っているのでしょう。

学校であれ社会であれ、人が『群れ』の中にいる時、その本能は常に無意識の領域から囁(ささや)いています。
自分より弱い者、不利な状態にある者、押しのけても逆らえない者を見付けろ。
そいつを攻撃して、自分の優位を思い知らせろ。
そうした分だけ自らの順位が底上げされ、死を遠ざけることができる。

それは、理性や優しさや愛情といった人間性とは違う場所から来る、無音の声と衝動です。

そして、それに従った時、太古の生存本能は、極上のご褒美(ほうび)をくれます。

私たちが何かをして楽しいと感じる時や、困難を克服したり、目標を達成したりして晴れやかな気分になる時、あるいは他者に対して優越感を覚える時、脳の内には、ドーパミンやエンドルフィン、セロトニンやオキシトシンといった快感をもたらす神経伝達物質が分泌されているとされます。

スカッとする爽快感(そうかいかん)や高揚感、胸が熱くなるような幸福感を得られるのは、これらの神経伝達物質が脳内の受容体に作用して、麻薬のような陶酔効果や多幸感を生むためだと考えられています。だからこれらは、俗に脳内麻薬とも呼ばれたこともあります。
現在の脳科学の用語では『報酬系の神経伝達物質』と呼ばれます。つまり、自分にとってプラスの行為をしたことに対して、脳が与えてくれるご褒美という意味でしょう。

冒頭で、中学の時私にイジメをした同級生は、楽しそうな顔をしていた――と記しました。
つまり彼の脳の内では、イジメをすることによって、この『報酬系の神経伝達物質』が放出されていたということです。

人間の脳の最も原初的な所にある生存本能が、自分は下位者を踏みつけて自らの生命の優先順位を底上げした、それによって自分を死から一歩遠ざけることができた――そう認識して、重要な課題をやり遂げたり、困難を克服した時と同じに、爽快感や幸福感や優越感という心地よいご褒美をくれたのです。

つまりホモサピエンスの脳に残る生存本能にとっては、下位者への攻撃は自らの順位確保にとってプラスの行為であり、それゆえに『報酬系の神径伝達物質』が分泌され、それゆえに『イジメ』という行為はそれをする者にとって、何よりも快感を得られる楽しい行為になるということなのです。

そして時として『イジメ』がより悪質で残酷なものにエスカレートしていくのは、加害者が脳の内に溢(あふ)れた『報酬系の神経伝達物質』がもたらす快感に取り憑かれ、麻薬中毒者がより多くのクスリを欲しくなるように、イジメによる快感をより多く得るために、より酷い加害行為をすることになるからでしょう。

けれど、この『生存本能ゆえの攻撃衝動』の存在を知らない加害者本人に、その自覚はありません。そして人間社会の倫理の中で、他者を苦しめることは醜悪な行為とされています。
だからイジメをする者は、無意識のうちに自己正当化の口実を探し、相手に原因を転嫁します。
あいつはウザイ、空気読めない、あいつを見てるとムカつく、あいつが自分をムカつかせる、だから悪いのはあいつの方だ。そう思い込み、自らの加害行為を抑制しません。
それらは全て自分の内側にある無意識的な攻撃衝動を正当化するための無意識的な自己欺瞞(ぎまん)であることは、自覚されないのです。

 つまり、先ず「自らが優位性を示したい者(何らかの意味における弱者)に対する攻撃衝動」が存在し、それを正当化するために、無意識的な原因転嫁が行われる。
その対象者が消極的な性格であれば「暗いからウザイ」、積極的な性格であれば「出しゃばりだから目障り」、非の打ちどころがなければ「いい子ぶってるからムカつく」というように、無自覚のうちに後付けで理由が作られるのです。

以上の通り、『イジメ』と呼ばれる加害行為の根本的原因は、ストレスやトラウマといった『人間の心理』ではなく、ホモサピエンスに残る太古の習性から来る『生物としての生存本能ゆえの攻撃衝動』であり、その不当性を自覚できないのは心理学的な無意識の自己欺瞞であり、そのエスカレートの原因は、脳科学上の要因にある、というのが、この考察における結論となります。

学校でのイジメについて調べてみると、40年近く前から、当時は校内暴力のひとつとして、教育現場では問題になっていました。
この考察を思い立ったのは、当然その間、心理学者や教育学者や社会学者がさまざまな分析や原因解明を試みたはずなのに、未だにまともな解決策が打ち出せないなら、既存の視点とは別のアプローチが必要ではないかと思ったからです。

そして自分の仮説に近い学説が何かないかと思ってネット検索をしてみたら、『進化心理学』という分野に行き当たりました。
これは比較的新しい学問分野で、フロイトやユングを始祖とする既存の心理学が、ヒトの行動原理をあくまで『人間の心理』に求めるのに対して、進化心理学では、その行動原理は人類が進化する過程―――特に狩猟採集の石器時代に形成された生存と生殖の本能に基くものであるという基本認識に立つもののようです。
(『進化心理学』の詳細については、ウィキペディアなどをご参照下さい)

ただしそれは、あくまでもヒトとして培われた本能であって、私が考察した『ヒトになる以前から脳の中に存在する、原初的な生存本能ゆえの攻撃衝動を引き継いでいる』というものではありませんでした。
しかし、この考察にある程度近い学説があることは事実です。

イジメはこの国だけの問題ではなく、隣りの韓国でも社会問題化しているし、アメリカで起こる銃乱射事件の原因にもなっています。
これらの深刻な負の現象をあくまでも社会問題や現代病理の範中としてしか捉えないのは、専門家の悪癖である偏狭(へんきょう)なセクショナリズムに思えます。

また、子供は(人間は)本来天使と同じ純真無垢で善良な存在であって、世間やメディアの悪影響がなければ間違いは犯さないなどというキレイゴトの性善説は論外ですし、全ては過度の競争社会や、学力偏重教育の弊害であり、イジメの加害者も過大なストレスに晒された被害者であるという主張は、前述の通りあまりにも的外れに思えます。

 そして、考えてみれば、心理的抑圧に原因を求める考えも、子供は純真無垢な天使だという妄想も、善もないが悪もない白紙とする「白い石板説」も、人は生まれた時には弱者を狙って攻撃する因子など持っていない、とする一点では同じです。

 しかしその土台の下に、『ホモサピエンスがその群れの中でより高い生存確率を得るために培われた原初的な生存本能ゆえの攻撃衝動』という、心理学や社会学の論理とは完全に異質のものが存在するなら、児童心理学を含めた既存の教育論理の全てを、根底から修正することが必要となるでしょう。

もちろん、この仮説には以下の反論が出るでしょう。
そんな考え方は人間の尊厳を冒瀆(ぼうとく)するもので、受け入れられるものではない。
心理学や社会学の定説を無視して、脳科学や動物学や人類学を都合よく混ぜ合わせた、キメラのような『奇説』にすぎない。
利己的な生存本能がヒトの心を全て支配するなら、他人を助ける『利他的行動』がなされる説明がつかない。
人間の行動の未解明の部分を、本能というあいまいなものに帰するのは、生物進化の未解明の部分を全て突然変異に帰すのと同じレベルの安易な考え方だ―――。

前述した進化心理学も、既存の心理学者や人類学者から同じような批判をされています。
生物としての進化と、ヒトの心理を結び付けるのは、学問分野ではまだ異端のようです。
しかし人間も生物である以上、本能は厳然として存在し、その存在を全く考慮に入れないことは間違っています。
ダーウインの進化論を受け入れて人間がサルの子孫であることを認めていながら、その本能が残っている可能性を否定するのは、論理的に矛盾していると言わざるを得ません。
 

 ただし、こう思った方も多いでしょう。
『イジメ』をホモサピエンスの本能だとするこの仮説が正しいなら、人間はひとり残らず全員が『イジメ』という弱者への攻撃をすることになる。でも実際にはそれをしない人はいくらでもいるし、弱者を身を挺(てい)して助ける人もいる。
他者を思いやる気持ちもあるし、ボランティアなどの『利他的行動』をとる人も数多くいる。
少なくても自分は、神に誓って弱い者いじめなんてしたことはない。
これはどう説明するのか?

実は簡単なことなんです。
イジメをしない人は、生存本能が後天的に―――つまり家庭内での日常的な親のしつけや、周囲の大人の教育や叱責によって、当の親や大人がそれを意図していなくても、幼少期のうちに書き換えられているのです。

例えば、ここに二人の幼い兄弟がいる。この兄が弟をいじめる、というのはよくあることです。
もちろんこの場合のいじめるとは、社会問題の『イジメ』とは全く違う、弟のおやつを兄がとってしまうとか、母親が弟の世話をしていると、ちょっかいを出すといった、大人から見れば他愛ないことです。
この行動の原因は、弟が生まれるまでは母親の愛情を独占していた兄が、母親を弟にとられたように感じて嫉妬しているのだと大人は思う。でも実は、それはヤキモチなんて可愛いものではないんです。

自然界において、特に私たちを含む哺乳類(ほにゅうるい)においては、子供にとって母親はエサを与え、外敵から保護してくれる絶対的に必要な存在です。それを奪われることは、兄にとって自らの生存確率が著しく減少することを意味する。
だから兄の生存本能は、弟を生存競争のライバルとみなし、母親の保護を受ける優先権を主張してライバルを排除するための攻撃をしているんです。家庭というのは最小単位の群れでもありますから。

通常自然界での母親は、子供たちが与えられたエサを巡って争っても止めないし、公平な分配などしません。当然子の中で強い個体がより多く食べられることになります。
獲(と)れるエサが限られている自然界においては、ひとつの繁殖期(はんしょくき)に一匹の子が巣立てば、そのシーズンの繁殖は成功となる。他の子はそのスペアでしかない。
母親も獲れるエサが少なければ、弱い子は衰弱死するに任せます。
しかし、人間が作り上げた文明社会はそうではない。母親は子供を全て平等に育てる。それができるだけの物質的な余裕を、人間は作り出したわけです。

だから、兄が弟を攻撃――つまりいじめれば、母親は当然それをやめさせて、兄を叱る。
幼い子供の生存本能にとって、母親に叱責されることは、母親の愛情を失う危機であり、それはイコール、エサと保護を失う、自らの生存の危機であるわけです。
そこで兄の生存本能は、弟への攻撃が自らの生存確率を上げるものではなく、逆に下げてしまうものであると認識し、攻撃にブレーキを掛ける。
つまり下位者への攻撃が自分にとってプラスにならず、逆にマイナスとなることを『学習』するわけです。

そんな時、普通母親は、弟と仲良くしなさいと教える。その通りにすると、母親は喜び、褒(ほ)めてくれる。
兄の生存本能は母親の愛情を確保できていることに安堵し、弟の面倒をみることが自らの生存確率を上げるのだと認識する。そこで、より積極的に弟の世話をする。
これが、他者を思いやる『利他的行動』の原型になるわけです。
こうして、弟をいじめた『悪いお兄ちゃん』が、弟の面倒をよく見る『いいお兄ちゃん』に変わる。けれど一見正反対に見えるどちらの行為も、生存本能の求めによって、自らの生存確率を上げるためにやっている、ということでは同じなんです。

これは、あくまでも単純化した一例ですが、こうして基礎的な人格形成がなされる幼少期において、『小さないじめ』をした時に適切な叱責をうけたことによって、弱者を攻撃することが自らの生存確率を上げるものではないと生存本能が認識し、その攻撃衝動を抑制するように自らを書き換えた者は、それ以上攻撃をしないか、それをすることへの躊躇(ためら)い(=ブレーキ)が形成される。

その書き換えがされなかった者、あるいは不十分であった者が、攻撃衝動のままに自らが身を置いている集団の中における弱者を攻撃する。
この場合の『集団』とは、狭義においては家庭・学校のクラスやクラブ、広義においては社会全体までの全てを抱合します。また『弱者』とは、ケンカが弱い、気が弱い、ということから、社会的・政治的・経済的に立場が弱い、あるいは極少数派であるといった強弱関係の全てを含みます。

そして、その攻撃行為によって自らの生存確率を上げたと誤認識した生存本能が脳内で分泌させた、達成の快感をもたらす『報酬系の神経伝達物質』によって、その攻撃行為自体が楽しみとなり、常習化する。
そして麻薬中毒者がより多くの麻薬を求めずにはいられないように、より多くの報酬系神経伝達物質の分泌を求めて攻撃をエスカレートさせていく―――。
それが『イジメ』と呼ばれる弱者への加害行為の発生とエスカレートのメカニズムではないかと、考えることができます。
たぶんドメスティック・バイオレンスや、職場におけるパワー・ハラスメントも、根本的原因は同じでしょう。

もちろん、ヒトの行動の全てが動物レベルの生存本能の利己的な指令だと主張したいわけではありません。
愛情も優しさも思いやりも全て存在しているし、人と人との関係は、その中で成り立っていると思いたい。でも、人間の脳のほんの一角、人間自身がその存在に気付いていない最も原初的な無意識の領域に、本能が支配している部分があるのではないかと思っているだけです。

 誰もが知る通り、高度に進化した生物ほど、本能が支配する領域は狭まっています。
例えばゴリラは、ボノボとチンパンジーに次いで人類に近い霊長類とされていますが、子供のころ人間に捕獲(ほかく)され、動物園などで一匹だけで飼育されたオスは、繁殖(はんしょく)のためにメスをあてがっても交尾をできないことがあるそうです。これは幼い時に群れから引き離されたために、成獣の生殖行動を見て学ぶことができなかったためだと考えられています。
つまり、生殖という種の継続にとって最も基本的なものでさえ、進化した霊長類は後天的な情報伝達に依(よ)っている。それほどまでに、本能の支配する領域は狭まっている。
けれどいかにそれが狭まっても、生物である以上ゼロにはならない。
そして、狭まっていく領域の中で最後まで頑強に残るものは、自らの生命の存続を保持しようとするもの、すなわち生存本能であるはずです。

その中に『自分の生き残りの優先順位を底上げし、その順位を維持するための、弱者への攻撃』を行う因子があるなら、イジメはホモサピエンスの遺伝病に等しいものかもしれません。

つまり既存の心理学や社会学では、『イジメ』という加害行為を、育成過程のトラウマや学校や社会生活上のストレスに起因する一種の『異常行動』として認識していますが、それは全く逆で、ホモサピエンスという生物種が必然的かつ不可避的に持っている原初的生存本能に基く『普遍的(ふへんてき)行動』ではないかということなのです。
 
ただし、人間は本質的に残酷な生物だと言っているわけではありません。
当然すぎるほど当然のことですが、弱肉強食・適者生存を基本とする自然界の摂理(せつり)と、人間が作った文明世界のルールやモラルは違います。
例えば母親が子供を自分の腹の袋で育てるので、母性の象徴のようにイメージされるカンガルーは、旱魃(かんばつ)で草原が枯れ、食料となる草が少なくなれば、あっさりと袋の子供を捨ててしまう。
オスのライオンは繁殖のためにメスの群れを手に入れた時、前にいたオスとの間に生まれた子供を全て噛み殺してしまう。
人間の基準に置き換えれば、カンガルーは育児放棄だし、ライオンは連れ子殺しだけど、それは過酷な自然界で生き残り、自らの子孫を残すために必要としている行為です。
根元的には、それと同じことです。

 人間が文明社会を作ってから僅(わず)か数千年、人類の祖先が野生のサルとして、弱者を容赦なく淘汰する自然界の中で生きていた時間の長さに比べれば微々(びび)たるものです。
文明社会が生み出した『ヒューマン』としての価値基準や倫理基準に合わせて、『ホモサピエンス』という生物種全体の本能が自己修正するには、短かすぎる時間です。

私を含め大部分の人々は学校の授業で進化論を学び、人間がサルから進化した生物であるということを知識としては持っている。
その一方で、ヒトとサルは厳然として違うという認識も同時に持っている。
アメリカにまだいるキリスト教原理主義者のように、人間は神が造り給(たも)うたものだとまで盲信してはいなくても、人は生まれた時には純真無垢で、他者を傷つける因子など持ってはいないと信じている。

でもこれは、かなり矛盾しているのではないでしょうか。

知性や理性や愛情によって形成される『人間性』とは、人間自身が造り出してきたものであって、生まれながらに備っているものではないはずです。
生物が生まれながらに持っているのは、自らの生き残りと遺伝子の継承を最優先とする利己的な本能だけです。

だからこそ、太古の自然界において必要とされたがゆえに培われた生存本能を、現在の人間社会のモラルに適合するよう、後天的に修正する必要があるのであって、その意味においては、人格形成教育こそが最重要であり、その軽視がイジメを始めとする社会病理の原因であるとする考えこそが正しいものであると思います。
ただ、倫理や自己抑制といった理性や、優しさや思いやりといった人間らしい感情を教えると同時に、修正すべき『もの』があるのではないか、という点が違うだけです。

 つまり、
『本来はイジメなどしないはずの「ヒトという善良な存在」が、ストレスなどの育成過程の負の原因やメディアの悪影響によってイジメをするようになる』のではなく、
『本来はイジメ(=自らの順位を維持するための下位者への攻撃)をする本能を持ったホモサピエンスという霊長類が、適切な人格形成を施されることによって、その攻撃衝動を抑制し、他者を思いやることができる人間性(ヒューマニティ)を持った「ヒトという善良な存在」になることができていた』と考えるべきなのです。

 従って、現在における悪質な『イジメ』の頻発は、「人は本来、善良な存在である」あるいは「善もないが悪もない完全な白紙である」といった根拠が存在しない誤った思い込みのもとに、この人格形成が軽視されたことによって、加害行為をなす本能が修正されなくなってしまったことが真の原因であると考えるべきなのです。

最近学校のイジメ対策として、教育システムにおける生徒のストレス軽減が模索されていると聞きましたが、残念ながらこれは根本的解決にはなり得ません。
 『イジメ』がホモサピエンスの生存本能の一部であるとする基本認識に立つならば、ストレスは『イジメ』の根本原因ではなく、誘発要因にすぎないからです。

 「生物としての本能」という観点から考察するなら、「ストレス」とは「自らが対抗できない上位者(上司・親・教師といった個人的存在だけではなく社会・学校のシステムも含む)からの圧迫」であり、それが少なからず存在する状態の内では自らの順位の上昇は望めず、その分現在の順位維持が必然性を増し、それが下位者への攻撃を増加させる、と考えることができます。それゆえに、学校及び社会生活上のストレスが、『イジメ』の誘発要因となるのです。
 
 学校という生徒を保護できるシステムの内でストレスを少なくすることによって誘発要因を取り除くことにより加害行為を少なくできても、「ストレスが掛かれば加害行為に走る」という性質が何ら修正されることなく生徒が卒業していくなら、それは『イジメ』が発生する場所を学校から社会に付け替えるに過ぎません。
全てが競争である実社会には、ストレスを軽減させるシステムを作ることなど不可能です。
 それは社会におけるパワー・ハラスメント、セクシャル・ハラスメント、家庭におけるドメスティック・バイオレンスとなって発現することになります。
 必要なのは、表面的な誘発要因の除去ではなく、ホモサピエンスという生物としての生存本能の存在を直視し、それを適切に修正することなのです。

ここまでお読みになった方、そんなに深刻な顔をしないで下さい。
これは全て第三者による検証も証明もされていない、私の個人的な仮説にすぎません。
ある程度的を射ているのかもしれないし、全く的外れなものかもしれません。
私はあくまでも市井(しせい)の一市民にすぎず、社会学や心理学の専門家ではありません。
脳科学や動物行動学や古人類学についても、図書館で多少の専門書をひもといただけの門外漢にすぎません。
その門外漢が、仕入れた知識の断片を自分の都合のいいように切り貼りしていたら、それらしい形になってしまった―――それだけのものかもしれません。

でもこれは、私なりの論理的考察の結果として、そこに行き着いてしまったものです。

 皆様はどうお考えになるでしょうか。

                                  了

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