見出し画像

「新しいタイプの学校」を求める人たちへ

私は以前、教育の分野で活躍する先輩から、
「伝統的な学校に対して作られてきた新しいタイプの学校は全て失敗してきた」
と言われたことがある。

伊豆大島の三原山をハイキングしながら、
しばし語り合ったときのことだ。

その方は、次のように続けた。
「結局、自由と規律のせめぎ合いになり、自由は放任へと堕していく」
「もしくは、行き過ぎた自由への反省から、伝統的な学校教育へと回帰していく」

と。

伝統的な学校教育の限界を感じ、
進歩主義的な教育の具現化を模索していた私は、
その言葉に対して釈然としないものを感じていた。
しかし、
進歩的な教育を目指す学校現場でしばし起こる「混乱」を目にしてきた私にとって、
その言葉は心の中に澱のように重く沈殿し続けてきた。

それ以来、一年間ほどここに文章を書くことができずにいたが、
デューイの「経験と教育」を再読し、
頭の中を整理するために書くことにした。

デューイは「経験と教育」のまえがきで次のように主張している。

伝統や習慣を見放すようなことがあれば即刻、教育哲学を発展させることは、はなはだ困難なことである。また、このような理由によって、思想上新しい体制のうえに基礎をおく学校の運営は、踏みならされた道を歩むような学校の経営よりは、はるかに困難なことである。

伝統的な一斉指導をやみくもに否定しただけの教育の危うさ、
新しい体制の学校運営の困難さが身にしみる。

新運動を推進している人たちは、たとえ「進歩主義」という主義に立っていたとしても、教育については、なんらかの主義という見地からではなく、「教育」それ自体の側面から再考しなければならない(中略)どのような運動でも、それ自体の立場からではなく、ある「主義」という見地から考えたり行動したりするようでは、他の「主義」に対しいちじるしく反動的な立場をとりがちになり、結局は知らず知らずのうちに、他の「主義」によって支配されることになるからである。なぜなら、そのような運動は、現実の必要性や問題や可能性についての、総合的で建設的な調査によるのではなく、他の主義に対する反動によって、その原理を形成することになるからである。

「伝統的な教育」に対して反動的な立場に立った
進歩的な「主義」を標榜する教育関係者が年々増え続けているが、
彼らの「主義」に対して最近少し冷めた目で見てしまっている自分がいる。

結局、デューイが「経験と教育」を通して明らかにしたことは、

「教育」問題を考察するうえで準拠枠を示唆し、その教育問題の争点がいかに大きく、また奥深いものであるかについて、注意を喚起したいという目論みにある。

教育問題の争点の「大きさ」「奥深さ」の自覚が必要である。
表層的な二項対立から脱していかなくてはいけない。

同著編集者のはしがきに、次のような記述がある。

▶︎『経験と教育』は、伝統的および進歩主義的教育の両方についての明確な分析である。それぞれの教育にみられる根本的な欠陥が、この本で記述されている。
▶︎伝統的なカリキュラムには、固定した統制と訓練が必然的に伴われている。そのことは、疑いのないことである。それらの統制と訓練は、子どもの本性である能力と興味を無視することになる。
▶︎しかしながら、今日、この型の学校教育に対する反動が、他方の極端ー不完全なカリキュラム、行き過ぎた個人主義、およびはきちがえた自由を標榜する自発性ーをしばしば助長しているのである。

新しいタイプの学校づくりを目指す人たちにとって、
デューイの論考は多くの示唆を与えてくれる。



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?