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ノートを始めるにあたって
勉強の時期だと思いました。
天理教校本科実践課程を出てる友人や、働くようぼくとして実践を重ねているような熱い人達とのつながりで、談議を重ねていると、
自分はまだまだだなーと刺激をもらうばかりです、、。笑
前々から本など薦められてはいたのですが、
最近ちょうど自分の求道心も重なり、読んでいこうというふうに思いまして、
そして読んでインプットしてもアウトプットしないと定着しにくいので
アウトプットの場として、細々とでもここに綴っていけたらなと思います。
天理教を知らない方からすれば、
こいつは何を言ってるんだというふうに思う内容ばかりかもしれないし
天理教の信仰者からしても、
難しいくそまじめな話だと感じるかもしれませんが(笑)、
ただアウトプットの場として
僕自身の素直に感じたままに
でもできるだけ難しくせず、噛みくだいてざっくばらんに書いていけたらと思います。
信仰してる方でも敬遠してしまうような本を身近に感じてもらえるよう書いていけたら理想ですね。
あくまで信仰は一名一人の理というように、僕の物事の解釈であり受け取り方であり、ただの一悟りであると理解いただけると幸いです。
記事を書いていくにあたって
天理教とはどんな教えか、簡単にまとめてみました。
天理教とは、どういう教えか
教えを詳細にいくと深すぎるので、まずは概要だけ自分なりに簡単に説明してみます。
また、追々追加書いて行けたらと思います。
それではいきます!
※太字は神名、教えの呼称
信仰している神様の名を
天理王命(てんりおうのみこと)様といい
人間をはじめ、この世界のありとあらゆるものをお創り下された神様です。
人間をお創り下さった、いわば人間のおや(親)であることから、信仰者は親神様(おやがみさま)と呼んでおり、
実際に人間誰しもを、子どものように可愛くお見守り下されています。
人間同士がお互いに助け合って暮らす様子(陽気ぐらし)を見て、
神も共に楽しみたいとの思いから
長い長い年月と並々ならない思いをかけて
人間をお創り下さったとこの世界の元を明かされています。(元の理)
人間をお創り下された神様ですから
人間の生き方やか心の遣い方、生きる目的などを説かれており、病気の原因や僕たちが生きていく上で起こる色んなことの原因を説かれています。(いんねん)
また、普段自分のもののように使っている体や、この世のありとあらゆるもの(太陽や海、自然のものから、周りの人、自分の着ている服一枚まで)は
神様からのかしもので、自分のものは自分の”心”ただひとつだけだということ(かしもの・かりもの)を教えられ
それらがかりているもので当り前じゃなく、大事にする必要があること
そしてその自分の心遣いひとつで自分の身の回りの世界が変わってくることから
心遣いとしてつかってはいけないものを八つだけお教え下されています。(八つのほこり)
そして心を澄まする方法としておつとめをお教えくださっており
親神様のご守護、かりものに対しての感謝、
身近な人の病気のたすかりなどを祈念してつとめます。
神言には
おふでさき(教祖が直筆で書かれた教えの書物)に
わかるよふ むねのうちよりしやんせよ
人たすけたらわがみたすかる
おふでさき 三 47
(分かるよう胸の内より思案せよ 人たすけたら我が身たすかる)
なさけない とのよにしやんしたとても
人をたすける心ないので
おふでさき 十二 90
(情けない どのように思案したとても 人をたすける心ないので)
とあります。
たすけ合いをさせたくてお創りになったこの世界において、人をたすけることで自分がたすかるという、この世の真理です。
しかし人間は、色んなことを考える中でも、自分の欲ばかりで、
人のことをおもい、たすける心がないのが残念でならないと仰せになっています。
そういった人間に対して、かしものの身体に病気やけがなどの”しるし”を見せ、心の入れ替えを促されています。
こういったおやの思いを伝え、世の人の心の立て替えをし
陽気ぐらしの世の中へと立て替えていくことが、信仰者の目標です。
そしておやの思いというと、僕が強く感じるところで元の理です。
天理教教典 第三章
元の理
には
概略すると
親神様が、遥か9億年も前(かなり昔)に人間を創ろうと考えられ
それから並大抵でない思いとご守護で
だんだんと少しずつ
姿形も大きくなり、そして8000回以上もの(とても多い回数)生まれ変わりを経て
やがて知能をつけ、文字を扱えるようにし
今の文明の上に生活できている人間になるまでご守護くだされた
ということがまとめられています。
知れば知るほど、人間にかけて下さってる親心が伝わってきます。
そして、天理教というものがどういう教えであるかと
この元の理も含めて古い口語が残っています。
諸井政一著 正文遺韻 より
今迄の仕込で、十のものなら、九つまで教へてきた
いまゝでの、ながいねんげんのうちに、ちゑもしこみ、もんじもしこみ、また、そのうへに、をしへといふものも、神がいりこんでしこみ、いくへのみちもみなをしへてきたから、そこで、ものゝよしあしは、たいてい、わからぬものはないであろう。
なれど、くぶくりんまで、をしへてきたけれども、いま、いちりんの、ところがわからぬ。
是をこのたび、をしへるといふ。
それかりものゝりといふ。
そこで、なによのことも、みなたつてゐるけれども、たつた一つ、心でおもふやう、ならんといふ。これがふそくやろ。‥‥
‥‥それ、かりものといふりを、ききわけさへすれば、よし、あし、わかつてゐるから、わるい処へふみかぶらず、神さまのごおんをしりて、にちにちとほるから、そこで、まこと、一つのりになつてくる。‥‥‥
(今までの長い年限のうちに、元の世界のはじまりから、人間の成長に合わせ、知恵も仕込み、文字も仕込み、またその上色んな教え・宗教というものも、神が入り込み、色んな神がかりを見せることで仕込んできた。
そうやって色んなことを教えてきたから、もう道徳的な、ものの良し悪しはわかるだろう。
しかし、そうやって九分九厘まで教えてきたが、いま一厘のところがわかっていない。
この最後の一厘を、元をこしらえたおやとして、この度教える。
それはかしもの・かりものの理である。
いまや、全てをこしらえ、色んなことも成り立っているが、たった一つ、心で思うようにならない。
これが不足(不満)だろう。
どうすれば不足なく十分に満足で幸福な道を通れるか。
それは、かしもの・かりものの理がしっかりと心に収まればよい。
物事の良し悪しはすでに分かっているから、悪い方へも行かず、かりものの身体や世界だと知り、神様への御恩を知って日々を通るから、誠の心になってくる。
‥‥誠の心であるからこそ、大きい難を小さくしてもらえたり、小さい難はないものとしてもらえたりと、病気災厄や難儀不自由から守ってもらえ、自由自在のご守護を下さる。
その自由自在のはたらきというのは、それぞれの心のはたらき次第下さる。‥‥)
誠の心というのは、人をたすける心であり、思いやりのある、正直で誠実な心のことですね。
そして、9億年かけて人間を仕込んできた親神様からすると
9分9厘はもう陽気ぐらしができるまでになっている、その最後の仕上げの1点が、この天理の教えなのです。
まとめ
おふでさき(教祖が直筆で書かれた教えの書物)に
いまゝでに ないたすけをばするからハ
もとをしらさん事にをいてわ
九 29
とあります。
この世、人間をお創り頂いた”元”を知ることで、そこにかかるおやの思いを知ることができます。
元を教えること、元をこしらえられた親神様の思いを知り、
身体や世界を貸し与えているとかしもの・かりものの理が心に収まれば、
心ひとつで
難儀不自由から逃れられ、自由自在をいただける
陽気ぐらしの世界が広がる
という
それは今までにない、最後の一点としての、唯一の教えが天理教の教えなのです。
かしもの・かりものについては、また詳しく書いていきたいですね。
最後まで見ていただき、ありがとうございました。
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