神一条の道と心定め

はじめに

天理教では、神様のお言葉を取り次げる人が幾人かいたことを聞かせていただいていますが
「神の言葉」として主として残され教えていただいているものは、教祖飯降伊蔵のものです。

教祖の一番弟子であった飯降伊蔵氏から、明治20〜40年にわたって伝えられた天啓がおさしづとして筆録されています。

今回は、そのおさしづから、「ひながたの道」「神一条の道」の通り方について考えてみたいと思います。

天理教は、その信仰のことを"お道"と呼び、その名の通り、人間の誰しもの生きる道を説かれているものです。
少しでも、生きるヒントを学ばせていただけれたらと思います。


むずかしい道ではない

現在のお道は、年祭に向けた三年千日間の歩みの中ですが、以前の記事でも取り上げた、三年千日のおさしづ中でこういう一節があります。

難しい事は言わん。難しい事をせいとも、紋型無き事をせいと言わん。
(むずかしいことはいっていない。また、お前たちのできないようなことをせよとも、どうしてよいかわからないことをせよとも言っていない。)

皆一つ/\のひながたの道がある。
(お前たちのなすべきことについては、すべて一つ一つについて、教祖の行為を通して教えておいたひながたの道がある。)

ひながたの道を通れんというような事ではどうもならん。
(そのひながたの道を通れないというようなことではどうにもならない。)
明治22年11月7日 おさしづ

人間誰しもの通るべき道を、教祖がお示し下されたのが、"ひながたの道"です。

難しい事は言わん。
と、神様の方から、ひながたを通ることは、難しいことではないと仰せ下さるんですね。

しかし、教祖がご苦労された"ひながたの道"を考えたとき、世間や人間の考えより神様を立てるというような"神一条"ということを考えたとき、人間の側からすれば、難しく感じるものではないでしょうか。

(ひながたの道とは、その御行動一つ一つが、親神様の神意でなされていることであり、神一条に通られた道です。)

約2万件と、膨大な数があるおさしづですが
その中には、「ひながたの道」や「神一条の道」について
「難しいことではない」「難しくない」と仰下さっていることを、共通して見られるものがあります。

一見すると、難しく考えてしまいそうなところを「難しくない」と仰下さる、そこの神意にヒントがあるのではと考えます。
ですので、他のおさしづを見ていきたいと思います。


一寸も難しい事はないで

神一条の道についてのおさしづの一節

神一条の道一寸難しいようなものや。一寸も難しい事はないで。神一条の道こういう処、一寸も聞かしてない。
明治21年1月8日


大意は、

神一条の道というものは、人間の頭で理解しようとした場合には、むずかしくも思われよう。しかし、根本の理合いを聞き分けるならば、少しも難しいものではないのである。神一条の道とは、こういうことであるという点については、天保九年十月二十六日以前には聞かせたことはない。
『おさしづ研究』P.107


これは、まだ20代前半と若く、これから信仰を掴んでいこうとしている松村吉太郎氏に対して、伝えられているもので

「一寸も難しい事はないで」

と、説き聞かせてくださるところに、篤い親心が感じられます。

僕自身も、悩んでいたときにこのお言葉をふと聞いたとき、親神様の親心から目頭が熱くなったのを覚えています。
"信仰"というものに人生の主題を置いたとき、いろいろな悩みは、全て、神一条が難しいから起こってくるように思います。
もしくは、神一条を難しく考えているから、神一条が難しいものになり、悩みの種となってしまいます。

しかし「一寸も難しい事はない」と仰下さる道なのです。


よう通れるで

また別のおさしづ

明治二十年十一月十六日
礒田源右衞門四十才願(斯道会)

さあ/\よう聞き分けねば、分からんで。結構々々で道を通る。たゞ結構では分からせんで。心々、神一条の道は誠一条の道を分かりてくれねばならんで。心一つ定めてくれねば分からんで。世上にどんな事があろが、心一つの心で通れば、よう通れるで。誠さい定めて居よなら、独り救かるで。

ここでは、「心一つ定めてくれねば」「心一つの心で通れば」
「誠の心」を定めて通れば、通れるものだ
と仰下さっています。

さらに、続いてのおさしづ

礒田源右衞門願(前の伺いについてさしづ)

さあ/\何かの処も一ちと言うで分からん。一人々々の心に留まる。天然自然道や。往還道でも心に掛けずしては、踏み被ぶる。細道でも、心に掛けば、よう通れるものや。暫く心澄まして、一寸根の方へ力を尽せ。成るだけの踏ん張りをせねばならん。だん/\奮発する故よりの事。

ここでは、「細道でも、心に掛けば、よう通れるものや」
とあります。
細道とは、通りにくい道、逆境の道です。
往還道とは、広々として通りやすい道です。

細道でも、注意を払って心を引き締め、定めた「誠の心」で通れば、よく通れるというものだ
と仰下さっています。

逆に、
「往還道でも心に掛けずしては、踏み破る」
と、
通りやすい道なばかりに、心に隙をつくり、油断して通っていると、通り損なってしまうものだ
と仰られます。

これは、実体験としてもよくあるなと感じるところです。
細道のような状況、危ない道だが、絶対に通り損なわず突破しなければならないようなとき。

そんなときは、いつも以上に注意して、しっかりと準備をして、気を張っているから、案外通れてしまうものです。
これを外したらまずいというギリギリのときや、ちょっと手が届くかどうかわからない目標を、絶対に達成したいというときにあるように思います。

逆に、往還道のように、余裕だろうと安心し切っている状況だと
普通に通れるはずのところを油断して、普通以下の成果しか出せないというようなことがあります。


「往還道」「細道」「心に掛ける」
ここに、神一条の道の通り方の、ポイントがあるのではないでしょうか。
「油断せず細心の注意を払って歩む」という通り方。そうすれば、「よう通れる」もの。慢心や油断が大敵です。



最後に

上記のおさしづの一節から

「心一つ定めてくれねば分からんで。世上にどんな事があろが、心一つの心で通れば、よう通れるで。」

「心一つ」ということで
思い出すことは、「かしものかりもの」です。

「人間という、身の内神よりかしもの・かりもの、心一つが我がもの」
明治22年2月16日 おさしづ

このかりものの世界で生きていく上で、「心の自由」を教えてくださっている「かしものかりもの」
「心定め」ということは切って切れないものだと思います。


「かしものかりものの教え」とは
「人間のものは、心一つだけであって、身体や世界は神様がご守護し与えてくださっているものである」ということです。


こちらの記事内の口伝で

本当にかりものに違いないと、心に感じましたら、神の話の理を守ることが出来ます。

とあります。


気を抜いて油断しないことに加えて
「神の話の理を守る」ということを「心に掛けて」誠をしっかりと定めて通ることで、神一条の道を難しくなく、通れることができるのではないでしょうか。


一見難しく感じる、神一条の道の通り方について考えてみました。


おさしづは本当に奥が深く、胸に響いてくるものばかりで、おもしろいですね。
おさしづも時間をかけて学んでいけたらと思います。


最後までありがとうございました。

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