私の教祖④ (五,六歳)
はじめに
前回では、お生まれから四歳頃までを取り上げた。
その続きを、
『私の教祖』から
四歳の頃から、母親の側に座って見ていたことで、
(※一部現代仮名遣いに変換)
『稿本天理教教祖伝』では
『正文遺韻』では
(一部現代仮名遣いに直して)
まとめ
四歳の頃に、お守りを離れてからは、母親の側で針仕事を見ていた。そうすると、いつしか自然に針の持ち方や糸紡ぎの仕方を見覚えになる。この頃から既に、「お手伝いをしよう」とか「喜んでもらおう」という心持ちがあったのだろうか。普通の四歳の子どもなら、自分のことばかり考えて、「自分があれがしたい、これがしたい」と考えるのが相場だろう。しかし、そういった「自分」のために何かするという欲がすごく弱く見える。
「お手伝い」ということの方が、自分の一次的な欲求の上にあるのだろうか。そうした気持ちであるから、(四歳からすぐにできるわけではないが)はや、五、六歳の頃には針を持ち、網巾着をこしらえている。それから、編み物、縫い物をいろいろとこしらえるようになった。
小さい子どもながらに、いろいろな物を作れたという楽しさがあった。「こんなことが作れるようになった」という自分の上達と、ものづくりの楽しさのうちに、どんどんと作れるものが増えていった。そうして夢中に編み物をして遊んでいるときにも、親から何か用事を頼まれれば、いとも気軽に用を果たした。いつも嫌な顔ひとつしなかった。そんな様子の娘を、両親はひとしおその愛情を深めた。そして我が子ながら感心な子だと将来を期待した。
そういった普通ではない神童のような行動は、近所の間でも評判になった。前川様のお嬢様は、すごく感心なお子様であるらしいと村中の知るところとなった。
(続)
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