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私の教祖④ (五,六歳)


はじめに


前回では、お生まれから四歳頃までを取り上げた。


その続きを、


『私の教祖』から

四歳の頃から、母親の側に座って見ていたことで、

何時しか自然に針の持ち方や糸紡ぎの仕方を見覚えになり、六歳の頃ともなれば既に母親の側で針仕事を真似たり、網巾着などの細工物をされたり、又時には母親の向かいに座って糸紡ぎのお手伝いをされるようになった。

『私の教祖』P.95

(※一部現代仮名遣いに変換)

しかもこうして無心に心に合うお慰みをされている折節にも、母から何かの用をいい付けられることでもあれば、嫌なお顔一つなさらず、いとも気軽にお果たしになるのが常であった。かかる様子をみるにつけても両親は、ひとしおその愛情を深められたことはいうまでもなく、我が子ながらも珍しい感心な子供であると、ひたすらそのたのもしい将来を期待するのであった。のみならず、この常の子と異なった日常は、やがて近隣の人々の知るところとなった。前川様のお嬢様はまことに感心なお子様であるとうわさをし合い、村中の評判にさえなって行った。

『私の教祖』P.95



『稿本天理教教祖伝』では

教祖は、三歳の頃から、なさる事が他の子供と異なっていたので、近所の人々も、人並優れた珍しいお子やと言いはやした。六歳の頃には、針を持ち始め、糸紡ぎをまね、網巾着を編み、糠袋を縫うては、好んで近所の子供達に与えられた。

『稿本天理教教祖伝』P.11


『正文遺韻』では

(一部現代仮名遣いに直して)

その間には、あれこれと、親がお命じになる御用をたして、たのしんでおくらしになりまして、五歳の御時から針をもちそめて、あみぎんちゃくをおこしらえ遊ばし、それから、あみもの、ぬいものをお手遊びとして、七.八歳となってからは、ぬう事も余程御上達くだされて、また糸をとったり、はたを織る事もくだされた。

『正文遺韻』P.4


まとめ

四歳の頃に、お守りを離れてからは、母親の側で針仕事を見ていた。そうすると、いつしか自然に針の持ち方や糸紡ぎの仕方を見覚えになる。この頃から既に、「お手伝いをしよう」とか「喜んでもらおう」という心持ちがあったのだろうか。普通の四歳の子どもなら、自分のことばかり考えて、「自分があれがしたい、これがしたい」と考えるのが相場だろう。しかし、そういった「自分」のために何かするという欲がすごく弱く見える。
「お手伝い」ということの方が、自分の一次的な欲求の上にあるのだろうか。そうした気持ちであるから、(四歳からすぐにできるわけではないが)はや、五、六歳の頃には針を持ち、網巾着をこしらえている。それから、編み物、縫い物をいろいろとこしらえるようになった。
小さい子どもながらに、いろいろな物を作れたという楽しさがあった。「こんなことが作れるようになった」という自分の上達と、ものづくりの楽しさのうちに、どんどんと作れるものが増えていった。そうして夢中に編み物をして遊んでいるときにも、親から何か用事を頼まれれば、いとも気軽に用を果たした。いつも嫌な顔ひとつしなかった。そんな様子の娘を、両親はひとしおその愛情を深めた。そして我が子ながら感心な子だと将来を期待した。
そういった普通ではない神童のような行動は、近所の間でも評判になった。前川様のお嬢様は、すごく感心なお子様であるらしいと村中の知るところとなった。


(続)


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