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私の教祖③ (出生〜四歳頃)


はじめに

中山慶一著の『私の教祖』から、また他の史料から、教祖のご履歴を詳細に咀嚼していこうという記事。
今回は、ご出生から四歳頃まで。


お生まれの家

教祖のご生家、前川家は格式のある家であった。

『私の教祖』より

「地方に顔のきく豪族」「相当経済的にも豊か」という家柄、

前川家が単なる一村の庄屋年寄役ではなく、少なくとも十ヵ村の役人の上に位した目附役であったことが知られる。
教祖は、こうした財政の上からも、身分格式や権勢の上からも欠けることなく備わっている家柄にお生まれになったのである。

『私の教祖』P.92



幼きころ(四歳の頃まで)

お生まれになってからのご様子が、また『私の教祖』から

「その様子は早くから世の常の子供とは異なり、泣いたり拗ねたりなさることは滅多になく、大小用の世話なども手数がかからず、珍しく楽な子」であった。

「二、三歳の頃には雇い入れた近所の娘子にお守りをされながら過ご」した。

四歳の頃からは、

早そのお守りの人を煩わされることもなく、母親の仕事の折などは、専らおとなしく側にお座りになって、衣服の裁ち方などを手慰めとなされながら、決して無理を仰せになることもなく、何時までも一人でお遊びになるのが常であった。

『私の教祖』P.94



『稿本天理教教祖伝』では

 教祖中山みきは、寛政十年四月十八日朝、大和国山辺郡三昧田に生まれられた。
(中略)
 教祖は、三歳の頃から、なさる事が他の子供と異なっていたので、近所の人々も、人並優れた珍しいお子やと言いはやした。

『稿本天理教教祖伝』P.11



『正文遺韻』では

(※一部現代仮名遣いに変換)

御誕生 御幼児

お生まれの年を申せば、寛政の十年四月四日、夜のほのぼの明けはなれる頃、五色の雲とも言われるあやしの雲が、屋根のあたりに厚くたなびいて、村の誰彼が、不思議の事と見てあるとき、御家の中には、産声あげて、この尊きお方としるやしらずや、愛らしの娘子が、おでき遊ばされたのである。
注 一説に十八日ともいう

『正文遺韻』P.3

(※現在は十八日が定説)


赤児の御時 御仕事始め

ご教祖様ご誕生なりまして、三年というものは、隣家の娘子をたのんで、守をしたという事でありますが、世なみの子供のように、泣いたり、すねたりする事はなく、いつも、にこにこしてござって、また大小用の世話も他の子のように、手数がかからず、めずらしく、らくの子やと、親たちもお喜びなされて、お育て遊ばしたのでござります。
しまして、四歳の御時には、すでに守りをはなれて、親たちのおひざもとにあって、おとなしく手遊びをなされて、その間には、あれこれと、親たちがお命じになる御用をたして、たのしんでお暮らしになりまして、…

『正文遺韻』P.4


まとめ


教祖は、その魂のお方であるから、お生まれのときから、いわゆる世間一般の子どもとは違っていた。泣いたり拗ねたりするようなことは滅多になく、いつもにこにことしていた。おむつのお世話も手数かからない楽な子だった。二、三歳の頃には、近所の娘子を雇ってお守りをしてもらって過ごした。それも四歳の頃からは、早くもお守りを離れて、母親の仕事の隣りに大人しく座って、一人手遊びをしたり、時にはあれこれと頼まれたことを手伝った。.

子どもというのは、元来わがままなものである。自分の欲求に忠実で、欲しいものがあったら駄々をこねたり、腹が減るだけで泣いたり、思い通りにいかないことに拗ねたりする。
しかし、教祖は幼い頃から、そういった自己のコントロールに長けていたように見える。子どもが無邪気に表現するような「欲求」から離れている。生まれながらに、魂にそういう人格が備わっているのだろうか。手のかからない楽な子であるという、いわば世話する者をたすける子だった。生まれ変わり出変わりを繰り返して、遥か昔から、成人を繰り返してきたのだろうか。いや、人類の母なる"いざなみのみこと"の魂として、世話してくれる者であっても、幼き頃の教祖からすると子どもだったのだろう。


(続)


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