心を入れて御手習をあそばす (九〜十一歳)


はじめに

学問について。


『私の教祖』から

かくして成人されて行くうちに、七歳から十歳までの頃には、父親の暇々に読み書きの手ほどきをお受けになり、又九歳から十一歳までの三カ年ほどは、近所の寺子屋に通われて、当時の子女としては一通りの勉強もなされた。この点、家柄だけに並の子供とは異なっていたに相違ないが、学問についてはあまり奨励されなかったばかりでなく、女子や町人、百姓に対しては幕府の政策上、むしろ触れさせないように仕向けられていた当時のこととて、教祖も別段、組織的な学問をなされた跡はない。しかし、生まれつき至って鋭い感受性を持っていた教祖のことであるから、物に触れ事に当たっては、自ら体得されたものに何処までの深さがあったか、その全貌素よりこれを測り知ることは出来ないが、その後の生活態度に現れて来たところによってその一班をうかがうことが出来る。

P.96



『稿本天理教教祖伝』では

手習いの手解きは、父親から受けられたが九歳から十一歳まで、近村の寺子屋に通うて、読み書きなどを習われた。

P.12


『正文遺韻』では

御手習
 夫から九歳の御時より、十一歳まであしかけ三年、御手習におかよひ遊ばしたという事であります。此のころは、今日の如く、学問はすゝまず、ことに女の身などは、よみかきはいらぬものとしてをつた時代でありますから、そのあしかけ三年のお手習ひも、ほんの僅かの御修行でありましたらうと乍恐存ぜられます。
 しかし、世なみの子供にいたしますれば、手習に通つても、ゆきもどり共、遊びたはむれて、やうやく先生の御しかりを蒙って、お草紙をくろうする位の事でありますが、御教祖様の御幼児は空しく遊びたはむるゝ事は更におきらひでありますので、お手習に御出でになった時は、心を入れて御手習をあそばす。先生が来たからといって、筆をもつたり、すみをすつたり、先生が見えぬからといつて、やかましくしやべつたり、さわいだりする子供とは違つて、少しも師匠の前と、前ではないのとの、へだてはござりませぬ。精を出して御稽古を遊ばして、御手習がすめば、さつさと御帰りになつて、はりしごとに精を出し、或ははたをもお織り被遊、その他萬事に御働きなされて、一日だも、あだにすごすといふ事はありなされません。それゆゑに、十一ニ才にして、既に一人前、十分の御しごとをなされるやうにおなり被遊た。

P.6


まとめ

七歳から十歳頃までは、父親から読み書きを教わった。また九歳から十一歳までの約三年の間は、近所の寺子屋に通われて一通りの勉強もした。その当時では幕府の政策上、学問については、女子や町人、百姓にあまり触れさせないように仕向けられていた。だから、教祖も別段、本格的な学問を学んではいないだろう。しかし、生まれつき至って鋭い感受性を持っていた教祖のことである。物に触れ事に当たっては、自ら体得されたものに何処までの深さがあったかは、その後の生活態度に見て取ることができるのではないだろうか。

その少しの期間でも、教祖は熱心に学んだ。空しく遊びたわむれることは嫌いだった。寺子屋に行けば、心を入れて勉強する。他の子達が友達同士で騒いでいるのを傍目に、精を出して勉強した。先生がいるときといないときで少しも変わらなかった。精を出して勉強をして、それが終わればさっさと帰って針仕事に精を出した。あるいははたをお織り、その他にもいろいろなことに働いた。一日もあだに過ごすことはなかった。そうした日々から、十一、ニ才にして、すでに一人前、十分の仕事ができるようになっていた。


(続)


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