はじめに
学問について。
『私の教祖』から
『稿本天理教教祖伝』では
『正文遺韻』では
まとめ
七歳から十歳頃までは、父親から読み書きを教わった。また九歳から十一歳までの約三年の間は、近所の寺子屋に通われて一通りの勉強もした。その当時では幕府の政策上、学問については、女子や町人、百姓にあまり触れさせないように仕向けられていた。だから、教祖も別段、本格的な学問を学んではいないだろう。しかし、生まれつき至って鋭い感受性を持っていた教祖のことである。物に触れ事に当たっては、自ら体得されたものに何処までの深さがあったかは、その後の生活態度に見て取ることができるのではないだろうか。
その少しの期間でも、教祖は熱心に学んだ。空しく遊びたわむれることは嫌いだった。寺子屋に行けば、心を入れて勉強する。他の子達が友達同士で騒いでいるのを傍目に、精を出して勉強した。先生がいるときといないときで少しも変わらなかった。精を出して勉強をして、それが終わればさっさと帰って針仕事に精を出した。あるいははたをお織り、その他にもいろいろなことに働いた。一日もあだに過ごすことはなかった。そうした日々から、十一、ニ才にして、すでに一人前、十分の仕事ができるようになっていた。
(続)