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【親友の死は突然に】

noteを始めて以来、親しい人の死について書く記事が3本目になってしまった。2021年に入って起きたばかりの出来事だけど、書いて供養しなければどうにも心が定まらないので、ここに一文書こうと思い立った。本当は好きな芸人さんでもあったし、書きたいエピソードも沢山ある。あるけれども、故人は誰にも知られないよう、知らせないよう病魔と戦い、それはそれは用意周到に「何も残さないように」小気味よくこの世を去って行ったので、細かいことをぼやかしたり素通りしたり、敢えて伏せて記し、故人の意志を尊重し続けたいと思う。だから、一部関係者で多少事情を知っている人といえども匿名性にご配慮をお願いしたい。名前は、仮にBさんとさせていただこう。

【芸人Bさんとの出会い】

さて、出会いは20年ほど前。とあるショーで、それぞれ別のプログラムに別々のグループで出ていて知り合った。地方から来ていた芸人さんチームの一人だったのだけれど、聞けばBさんだけは関東に拠点を移しているという。その当時住んでいた家と家とがお互い近かったので「今度一緒にお仕事しましょう!」と声がけをしたものの「もしご縁があれば」という程度の返答で「ぜひぜひ!」などという社交辞令とは無縁だったことをよく覚えている。その当時私は20代後半。25で脱サラした私はまだまだ駆け出し芸人。とにかく次へつながる仕事・チャンスが欲しかった。そんなガツガツしたところが透けて見えてしまっていたのかも知れない。

しかしながら私がBさんに「何か仕事がありませんか」と御用聞きを続けたところ、楽器ができることを見込んで定期的に出来る仕事を紹介してくれた。その仕事先の親方とBさんの師匠は兄弟分なので、芸の上では叔父と姪にあたる。後に私は親方の家に入って名前ももらったので、Bさんとは、芸系ではいとこ同士って事になる。けれども、まるで我々が師弟あるいは兄弟弟子ででもあるかのように本当によく面倒をみてくれた。しきたりや、人間関係について。芸の上での約束事の数々、衣装の着方や選び方に至るまで、本当に細々と教わったことは数知れない。そして何より「はぢめちゃんの芸は本当に良いねぇ」と褒め続けてくれた。

芸人にとって褒められるとかウケるという事は本当に大切な事だ。どんな芸もウケなければ、良いと言ってもらえなければ、自分が世の中に要らない存在だと証明し続けているような気持ちになる。数少なくても、応援してくれている人の存在が目に見えたり、声で聞こえて来なければ辞めたくも死にたくもなるものなのだ。だからBさんが褒め続けてくれた事は本当に励まされたし、嬉しかった。

「はぢめちゃんは大受けなんかしなくても、目の前にいる人をバッチリ幸せにできるんだから凄いよ。これは誰にでもできる事じゃない。そんで小銭を稼いできゃ、この先もゴキゲンに人生送れるから大丈夫。良い男っぷりだし」といつも太鼓判を押してくれた。本当に感謝している。親友であり、大恩人である由縁である。

【Bさんが撮ってくれた宣材写真。この時借りた着物はBさんの師匠の形見の品】

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振り返れば数々の現場に呼んでくれて、一緒にいる長い時間の間には、仕事の相談も色恋の相談も、何もかも公私共々さらけ出せる数少ない親友になって行った。もちろん仕事以外にもお互い家に招きあっては手料理を振る舞ったり、出掛けたりの思い出も数多くある。私が即席で作った白菜の浅漬けの塩加減が良いと、こちらが恥ずかしくなるくらい大げさに褒めてくれる人だった。

後に、私がヨーロッパ方面のアコーディオン音楽に没頭するようになってからも、良く家族連れ立って聴きに来てくれて、相変わらず褒め続けてくれた。

【突然の連絡】

そんなBさんと最後に連絡を交わしたのは去年の2月5日。私の誕生日にラインスタンプでHappy Birthday!!と送って来てくれた時。その後、世の中はゴロゴロゴロと急な下り坂でコロナ禍に巻き込まれて行き、仲間たちと「仕事大丈夫?」という見舞いの言葉を交わす事こそあれ、お互いが元気でいることを前提としているので、親しい仲のBさんとは取り立てて頻繁に連絡をとっている訳ではなかった。なによりBさんは十数年前に良縁あって家庭を持ち、お子さんにも恵まれていたので、芸人としては殆ど引退している状態だったこともある。それが2021年1月の声を聞いて程なく、共通の知り合いから連絡があった。Bさんの余命があと一週間だと。

【私は何もできやしなかった】

聞けば、しばらく前にステージ4の癌が見つかって既に難しい状態だったらしく、本人の強い希望あり、家族以外の余人に知らせず、積極的な治療も行わず、万一の時には延命措置もしないとのことだった。いよいよ悪化してから「本当に誰にも知らせなくて良いの?」と名前を挙げて行った中に私の名前があったという訳だ。とはいえ、結局コロナの事もあり、面会は叶っていない。余命一週間の連絡をもらった時には食事も拒絶していたらしく、医者がいうには時間の問題だったという。細かい経緯は分からないものの、入院したばかりの頃は、家に帰れることを楽しみにしていたと聞かされた時には、私も言葉がなかった。結局家族以外には、友人3人だけに連絡があった。

その頃には殆ど意識はなく、もちろん携帯など手にする事はないと聞かされていたけれど、LINEに懐かしい写真を何枚も送って、考えに考えた挙句「いっぱいいっぱいありがとう」と送った。奇跡的に意識が回復した時に「こちらこそいっぱいありがとう」と返信があった。心の底から嬉しかった。

その後1週間を少し過ぎた頃、そのLINEのアカウントからご家族の手で送信された、訃報が届いた。

あまりに突然。これが世の常なのかも知れないと思わされることがつくづく多いこの頃、まさかまだ若い親友が先に行くとは思いもよらなかった。私は独り身なので、外出先などで倒れた時のために「緊急連絡先カード」というものを忍ばせていて、当然その中に私のことをよく知るBさんの名前も入っていたのだ。私は心の中でBさんをどこか頼っていた。親友と呼べる人は多くない。頭の中が白くなった。

故人の強い希望で「葬儀なし、香典不要、お墓不要」とのこと。ご家族と私を含む友人2名だけでお骨を拾う事になった。斎場でご家族と合流、お棺の中の無言のBさんと小さな窓越しの再会をした。生前の様子と変わらない姿で収まっているBさん。ひとつだけ、髪の毛は闘病中に抜け落ちてしまったそうで、綺麗に剃り上げてあった。お子さんはまだ幼いが、闘病を間近に見ていたせいか落ち着いて見えた。小さな頃から知っている間柄だけど、親御さんを荼毘に付す時に久しぶりの再会を果たすとはひたすらに悲しかった。何という運命の皮肉か、この日がお子さんの誕生日だった。

その日はとても暖かで、コートが要らないくらいだった。Bさんが寒がりだったからだねぇと誰もが話し、その日の美しい夕陽を眺めて翌日からの寒波を思いもよらなかった。今もまだ物事が手に付かない。Bさんの声が「はぢめちゃーん、心も風邪引くんだからさ、そういう時だってあるよ。それで良いんだよ。だから今は気にしないで呑気にしてた方が良いんじゃない?」と語りかけて来る。もうしばらく動き出せそうにないけれど、もうしばらくこのままでも良いかも知れないな、と思っている。合掌

【これもBさんがディレクションして撮ってくれた宣材写真。かれこれ20年近く昔の話し。人生はあっという間ですね】

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