【シリーズ1 #3】なぜ体験学習が必要なのか。

「シリーズ1」をつけて、
「シリーズ2、3、4・・・」と続けなければいけなくなりました、
Anzaki です。

「ベトナムってずっと暑いんでしょ」
とよく言われますが、わりとそんなことはなく、
ここ最近は少し肌寒くなってきました。

ハノイ(北部)はギリギリ四季があります。

気温よりも問題なのは空気汚染で、
特に冬は空気が悪くなってきています。
※数km先のビルが見えなくなるほど。。。

そんな中ですが(?)、前回の続きを話していきます。

「なぜ体験学習が必要なのか」

前回、体験学習は「感じて学ぶ」ものであり、
学習者によって得られるものが異なるものであるという話をしました。

『現代教育の忘れ物/三浦清一郎(編) (1987)』によると、
体験には大きく、以下の5種類があるようです。

• 自然接触体験
• 縦集団社会の生活体験
• 自発的活動体験
• 社会参加及び勤労体験
• 困難体験

それぞれのイメージとしては、、、

• あさがおの観察
• 縦割り班でのスポーツやゲーム
• 林間学校でのカレー作り
• ゴミ収集場の見学
• 夜のピクニック(恩田陸 著)

みたいな感じかなと思います。
縦割り班の中で、
「年上の人は尊敬できる人が多い」と学ぶ子どももいれば、
「年上の人は偉そうだ!」と学ぶ(?)子もいると思います。

人によって、得られる価値は異なる、まさに体験活動です。

Q.では、なぜこのような体験が必要になったのか。

A.昔は日常の中で学べたことが学べなくなったから。

これらの体験は、欠損体験と呼ばれています。
「失われた体験」です。

(夜のピクニックは別として)
ひと昔前は、多くの人が日常生活の中で行っていたことが、
時代の変化とともに、なっくなってしまっています。

おじいちゃんおばあちゃんの家と、お父さんお母さんの家が別々になりました。
回覧板が減り、地域の会合やイベントが減りました。
インターネットやゲームがどんどん面白くなっています。
都会に暮らし、小学生でも電車通学できちゃいます。

そんな中、子ども生活から、いろんな体験がなくなりました。
(それと引き換えに得られたものもあるので、
時代の変化が悪い、というわけではありませんが。。。)

ひと昔前は、近所のお兄ちゃんと一緒に遊んで、
「年上の人は尊敬できる」と感じられるチャンスがありました。
毎日家に帰ってオンラインゲームができてしまうと、
「年上の人は尊敬できる」と感じられるチャンスは少ないと思います。

確実に失われている体験があります。
「じゃあその体験を復活させよう!」というのが、体験学習です。

諸説ありますが、
日本では、1990年頃から
学校教育に体験学習が取り入れられ始めたようです。

しかし、しかししかし、
ここには大きな問題がありました。

「体験が学習になっていない」

おそらく、体験学習の導入は、
公教育を担う教師の方々にとっては、
突然取り入れられたものだと思います。

仕方のないことなのですが、
「自分が受けたことのない教育を行う」ことは、
とても大変なはず
です。

本当に本質を理解していないと、なかなかうまくいかないと思います。

※多分、道徳の授業もそれに似た状況が起こっていたと思います。

その結果、、、
「体験しっぱなしで、学習できていない」
ということになってしまいます。

体験するだけだと、
感じているかどうかわからないし、
学びになっているかどうかはもっとわかりません。

学びにつなげるはずのカレー作りが、
「カレーを美味しく食べた」だけで終わってしまっては意味がありません。

体験が学びに繋がらないと全く意味がありません。

**そこで重要になるのが、ファシリテーターの存在です。

**

ようやくでてきました。笑

ファシリテーターは、体験と学びを結びつけ、
さらに発展させる役割を担っています。

これ、次の話の結論になってしまうのですが、
次回はそういう話をします。


ではまた。

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