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『「メイド・イン・イタリーはなぜ強いのか?:世界を魅了する<意味>の戦略的デザイン』のあとがき

明日、26日に晶文社より出る本が店頭に並ぶ予定です。出版社から了解をいただき、著者あとがきをここで公開します。やや長いあとがきなので、本の成り立ちや趣旨は、およそお分かりいただけると思います(一部、表示やレイアウトは、note用に変更しています)。

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本書は1年半にわたり、株式会社タナベ経営の月刊誌『FCC Review 』に連載した原稿をもとに、大幅に加筆修正したものだ(コラムは2014年から2015年にかけ、日経ビジネスオンラインに連載した『イタリアオヤジの趣味生活』より抜粋し、加筆した。情報は当時のまま)。2016年秋、「 Made in Italyの経営戦略―存在感ある中堅・中小企業の深層」という連載タイトルを決めたのはよいが、世界各国で求められている話題かどうか、実のところ当初、100%の確信がもてなかった。

イタリアの中小企業経営や産業集積地が1980-1990年代に世界的に注目されたものの、20年以上を経た現在も、日本ではそれらだけがイタリアのビジネスイメージとして継続している感もあり、アップデートする必要があると思った。しかも、日本でイタリアのビジネスを語る人は、圧倒的にファッションと食の関係者が多く、この分野の現場経験がそのままイタリア企業経営論になりやすい。したがって、イタリア企業経営への違ったアングルを求める層が日本にいるはずだと考えた。

しかし、日本以外の人はどうなのだろうか。イタリアの人たちが、「Made in Italy の経営戦略」を議論するのは当然であるが、イタリアの外の人たちが関心をもつかどうか、その点が気になったのである。ホット過ぎる話題であれば私の出番はないが、あまりに関心が低いと資料を集めるのにも苦労するはず、と考えた。

ミラノ工科大学でファッションマネジメントなどを教える経営学の先生に相談したところ、ヴェネツィア大学のステファノ・ミチェッリと、その教え子であるパドヴァ大学のマルコ・ベッティオールの2人が、この分野の研究を先導していると教えてくれた。2人の本を読み、即、メールを送り面談を申し入れた。ベッティオールとはすぐ会えた。しかしミチェッリとは都合がつきづらく、何度もアポが延期になり、会うまでに一年以上かかった。

師弟だといって同じことを語っているわけではないが、彼らに共通するのは、二人ともヴェネト州をコアにしたイタリア北東部の企業に詳しい、ということだ。かつてイタリアの高度経済成長はミラノ、ジェノヴァ、トリノで形づくる三角の地域、すなわち半島の北西部が支えた。しかしながら重工業が過去のものになり、西側の勢いは減じてきた。同時に家具のような「軽い産業」は、ミラノ周辺から東のエリアが強くなっていく。

本書でも取りあげたが、ここに面白い企業が多い。ピアノのファツィオリは存在を知っていたが、取材対象として意識したのはミチェッリの本のおかげだ。だが、他の会社は面白いネタを探していたら偶然にヴェネトだったのだ。ワインのプロセッコやジーンズのトラマロッサは、その例だ。

ミチェッリとベッティオールの本が取材の指針を与えてくれたのはたしかであるが、ヴェネト州のリサーチが主眼ではない。それだけでは全体が見えない。そうして1年半以上にわたり、数々の人に出会う旅がはじまったのである。その過程で、メイド・イン・イタリーが「旬」の適切なテーマであると確認ができた。ボッコーニ大学経営史の教授であるアンドレア・コッリやアマゾン・イタリアへのインタビューの成果だった。

意味のイノベーションの文化土壌

インタビュー対象に選んだ企業は、手あたり次第にアポをとったわけではない。むしろ慎重に見極めて選んだ。それには、2つの理由がある。

30年近くイタリアに住んでビジネスをしてきたので、今回のテーマに対して、実務経験からの基礎知識も勘もあった。数えたことはないが、1000を超える企業の人間と話してきたはずだ。多くの実業家にインタビューすれば、「ルネサンス工房の伝統を継いでいる」というステレオタイプなイタリア経営観を耳にタコができるほどに聞かされるに決まっている。よってインタビュー数をむやみに増やすのは無駄であると思った。これが1つ目の理由
だ。

それでも、かつてステレオタイプな語りをしていたような経営者が、今も相変わらず同じような喋りをしているかは確認しておきたかった。つまりステレオタイプの中身に変容があったかどうかである。あるいは私自身、ステレオタイプが本当に意味するところをかつて理解していたか、との反省もある。そのために、原稿に具体的には書いてないが、あまり目立たない中小企業の経営者の話にも耳を傾けた。


2つ目の理由は、イタリア企業が存在感をもつのは「意味のイノベーション」が得意である、との点を仮説としたからだ。ゆえに、意味のイノベーションの成功事例を意識して取材先も選んだ。いわば、仮説の検証という意図があった。

冒頭に述べたように、「意味のイノベーション」はミラノ工科大学経営工学のロベルト・ベルガンティの著書『デザイン・ドリブン・イノベーション』『突破するデザイン』に依っている。前者にイタリア企業の例が多い。ベルガンティが1990年代終盤から関与した研究プロジェクトが同書執筆の動機ともなっているからである。そのプロジェクトの目的は、イタリア企業のデザインプロセスを経営面から明かすことだった。というのも、イタリアデザインの強さは、デザイナーよりも企業の経営者に起因しているとされていたが、経営判断プロセスが不可視の次元に隠されていたのだ。後者ではイタリア企業の例はあまりでてこない。ベルガンティは意味のイノベーションの汎用性を強調するために、後者では意図的にイタリア企業を少なめに抑えた、と私は感じた。


さらに、2冊の間にはおよそ10年の年月が経っている。よって調子がよいイタリアの事例のアップデートが必要である。またベルガンティがとりあげていない業界や分野での意味のイノベーションの例を紹介することで、意味のイノベーションの理解も深められ、さらにイタリア文化一般の傾向としての意味のイノベーションの存在感を示すことができる。そこで意味のイノベーションを用いた、好調なイタリアの事業例のアップデートも重要ではない
かと考えた。

当然というべきなのだろう。意味のイノベーションを説明し、それが「イタリア中小企業の存在感の大きな理由であると考えている」と話すと、イタリア企業人の誰もが首肯した。「そういわれてみればそうですね」という反応ではなく、「それはもう確信をもっていえるね」という口調が多数であった。

こうした結果から、たとえ意味のイノベーションという言葉が定着していなくても、概念や思考プロセスはイタリアの土壌に根づいている、と確認ができた。ベルガンティは、イタリアの初等教育にある「アートをつうじて解釈の仕方を学ぶ」との伝統が、この土壌を作っているとも語っている。モノゴトへの立ち向かい方が、言葉やラベルがなくてもすでにある傾向をもっていたことになる。それをベルガンティが「意味のイノベーション」という概念
でシャープに分析したわけである。


アルティジャナーレを多く語る背景


「アルティジャナーレ」(職人的)が中心テーマになるとは予想していた。この言葉をイタリア企業の特徴として挙げないビジネスパーソンはいない。そういっても大げさではない。パドヴァ大学のベッティオールも、ベルガンティの『デザイン・ドリブンイノベーション』にアルティジャナーレへの言及がないのを残念がっていた。本の目的と構成上致し方ないが、ベッティオールは、「意味のイノベーション」と「アルティジャナーレ」をセットで
語る大切さを話していた。

イタリア人経営者のステレオタイプな話では、「ルネサンス工房の伝統」と「アルティジャナーレ」の二つが一緒になって登場することが多い。ルネサンス工房におけるアルティジャナーレ文化はアートと密接な関係をもち、アーティスティックな要素を巧妙に表現する術をもっており、一人ひとりが役割で分断されることなく、総合的視点をもって仕事に望むので、全体にバランスが良いという。

この観光案内のようなアルティジャナーレのイメージを、私はやや過小評価していたきらいがある。取材をスタートしてから、自分の生半可な理解を反省することになる。ステレオタイプには、やはりステレオタイプになるほどに語るべき内容が詰まっていた。驚いたのは、アルティジャナーレにはさまざまな解釈がある点である。この解釈が多いという事実は、定説がないという意味ではない。それだけ大きな関心を呼ぶ議論の対象なのだ。

2012年にクリス・アンダーソン『メイカーズ』がデジタル時代の製造業を世に問うた時、イタリアでは同書をアルティジャナーレとの関連で思考を深めようとする人がいた。アルティジャナーレは良くも悪くも、彼らの文化アイデンティティの柱である。よって引き合いに出されるケースが非常に多く、それが我田引水的に使われる。極端にいってしまえば、手を使った作業であればなんでもアルティジャナーレ文化の賜物といえてしまうのである。

そこで私は彼らの我田引水を批判の対象にするのではなく、それに陥る全体的な背景に光をあてることが、イタリア企業経営の理解に役立つだろうと考えた。こうして分かったのが第3章で紹介した、戦後のキリスト教民主党がとった政策だ。アルティジャーノを中心にした小さい企業が社会発展のために不可欠の存在であるとの考え方を定着させ、そのための法的整備が図られたのだった。

この現実を支えるのが第2章の、アルティジャーノを伝統的な素材や技術で活動する領域とは区切らず、その行動規範・特性や思想を重視している点である。「アルティジャナーレ」と形容詞として多用されるのも、この言葉の性格を物語る。これらの帰結として、ヴェネツィア大学のミチェッリは「アルティジャナーレ文化を語るのは懐古ではなく、将来を見据えた戦略的な視点に基づいている」と説明するわけである。


「小さなデザイン」と「大きなデザイン」を分けない


「メイド・イン・イタリー」のブランド力とデザインの関係は切っても切れない。このデザインが、多くのケースで色・カタチのスタイリングを傍目には指してきた。それがイタリアデザインの1960年代から1980年代の黄金時代を象徴していた。この10数年、デザインは色・カタチといった「小さなデザイン」ではなく、対象を地域コミュニティや経営戦略においた「大きなデザイン」の文脈で語る必要がある、との議論に移ってきた。あたかもスタイリングを重視するのが時代遅れかのようなニュアンスがありそのためにイタリアデザインも劣勢に追いやられた感がある。

しかしながら、この状況には説明が必要だ。まず、前述した意味のイノベーションはデザインの範疇にある。デザインとはあるモノ・コトに意味を付与することで、この意味を付与することが意味のイノベーションであるからだ。つまり色・カタチが「単なる見た目」ではなく、それらがもつ意味を変えることを重視しているのである。

この分かりやすい例が、冒頭でも挙げた、生活雑貨メーカーのアレッシィのアンナGというワインオープナーである。ヘッドを女性の顔に、レバーをダンサーの腕に見立てたのは、機能製品からエンターテインメント製品に意味を変えたのである。これによって食卓でワインのコルクを抜く作業が周囲の人間を和ませる行為となった。

イタリアの小さなデザインは経営戦略における大きなデザインとの距離が近い、あるいは直結している。または大きなデザインを内包している。それにより、大きなデザインから小さなデザインに落とし込む段階でありがちな頭でっかちのスタイリングが生まれやすい、との悲劇を回避できる。小さなデザインと大きなデザインは同時並行に進めてこそ効果がはっきりする、と自覚しているのがイタリアの企業経営者たちである。

他方、大きなデザインの範疇に入る内容を、デザインという言葉にあてはめすぎないのも特色である。ピエモンテ州のスローフード財団が世界的に推進するプレシディア制度や、エミリア・ロマーニャ州の乳幼児のためのレッジョ・エミリア教育は、昨今の文脈でいえば、ソーシャルデザインの範疇に入る活動である。これらがスカンジナビア諸国で生まれていたら、ソーシ
ャルデザインという大きなデザインの括りの言葉を使っていたに違いない。しかしながらイタリアでこうした活動を推進する人たちは、ソーシャルデザインという言葉の存在を忘れていたか、知らないかのように振る舞う。

どちらもスタート時点でソーシャルイノベーションやデザインの社会への適応という考えが定着していなかったので、活動途中でソーシャルデザインという言葉を採用しなかったのだろうが、たんにその必要がなかったというだけではない。レッジョ・エミリア教育のジュディチに「どうしてソーシャルデザインという言葉を使わないの?」と質問したら、「あら、そういう言葉があったわね。これから少し使おうかしら」と笑って答えるのだ。

国際的に流通した概念や体系に自分たちの活動をはめ込むことに強く違和感をもち、すでに流通している言葉にはめ込むのはビジネス上、不利であると認識している。自分たち自身が言葉を定義する主導権をもつことにこだわるのである。したがって小さなデザインと大きなデザインの区切りにも、あまり乗り気でない。中堅・中小企業が大企業の下請けにならずに自立してビジネスを推し進めることによってこそ、存在感は発揮される。その第一歩は、
まず自分の頭で考えた言葉をもつこと、あるいは多数の見方や解釈をもつことである、という極めて当たり前のことがここから分かる。

この点を見ても、レッジョ・エミリア教育が子どもに豊かな解釈力をもたらすことに注力しているのは、イタリアに誕生した教育アプローチらしいといえる。イタリア中堅・中小企業の強さの源泉ともいえる。私自身、乳幼児教育のアプローチと中小企業経営論がこれほどにダイレクトにつながるとは当初思っていなかった。それが私自身にとっての驚きであり、このテーマを追い続けてきて良かった、と思える瞬間でもあった。

最後の最後になり恐縮だが、本書の誕生にあたっては実に多くの方に、お世話になった。連載・書籍の企画や取材対象選択のアドバイスをくださった方たち、実際に取材に応じていただいた方たち、推敲前の段階の未整理の原稿を読んで意見をくださった方たち、画像を快く貸してくださった企業や団体の方たち、そして一冊の本に仕上げていただいた方たち、みなさんに深くお礼を申し上げたい。
 
2019年12月 ミラノ     

**写真は、ミラノ市内にあるアルマーニ博物館の展示です。性別と時代の異なる服が一緒になっていているにも関わらず、同じアイデンティティを持っています。本書のメンズファッションの項で取り上げました。

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