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「日常生活のなかで創造性を発揮する」には理由が必要か?

井庭崇さんの『コロナ時代の暮らしのヒント』のあとがきに、次のような文章があります。イタリアの作家、パオロ・ジョルダーノ『コロナ時代の僕ら』のアンサリングとして、この本を書いた、と。

その本のなかでジョルダーノは、「感染症とは、僕らのさまざまな関係を侵す病だ」と言い表しました。そして、日本語版に「著者あとがき」として収録された「コロナウィルスが過ぎたあとも、僕が忘れたくないこと」というエッセイでは、「僕は忘れたくない」という言葉を何度も繰り返しながら、当時の社会的状況を印象的に描写しています。僕は、ジョルダーノの「僕らのさまざまな関係を侵す病」ということと「僕は忘れたくない」ということに同意・共感しつつ、本書ではそれとは少し違う側面に光を当ててきました。「身近な関係を紡ぎ直す」こと、そして、その日々を「忘れられない思い出にする」こと - 本書では、それらのことを実現するための方法について考え提示してきました。

ジョルダーノの「忘れたくないこと」という表現は、2020年10月24日現在、やや複雑な心境をもって受け止めざるを得ません。もし数週間前なら、もっと率直に読めた言葉です。

6月はじめの全土のロックダウン解除から、さまざまな規制を緩め継続しながら、8月頃からのスペインやフランスの第2波を横目に、爆発的感染をかろうじて抑えきってきたイタリアです。だが、この数週間、加速度的に感染者、重症者が増えており、数週間前は「増えてきたといっても、集中治療室の占拠率は4月はじめのピークの20分の1」と言っていたのが、昨日は「ピーク時の4分の1」と迫っています。

2-5月の第1波のありようが、見ようによっては「牧歌的」であったかもしれないとの危機感を抱きます。夏の暑い日でも馴れないマスクをつけ、ソーシャルディスタンスに注意し、握手やキスを一生懸命に回避してきた努力は何だったのか・・・との虚無感(あるいは敗北感)さえもつ人が増えつつあります。

第1波で大打撃を受けたロンバルディア州では、直接の知人でなくても、知人の知人に範囲を広げれば、感染症を契機に亡くなった知人がいない方が珍しい。そういう現状で、ジョルダーノが4月に書いた「忘れたくない」という時間の距離感はどのくらいだったのだろうか・・・という、意味のないどうでもいいことが、ぼくの頭をよぎりました。

第2波が秋以降に襲来することが分かっていても、4月の時点で、「あと半年もすれば、この惨状や気持ちを忘れてしまうのではないか?」と(ぼくも含め)恐れたような想像をしてしまうのです。何よりも怖いのは、人とはとても愚かであることを誰もが知っており、しかしながら、あまり真正面からはこの事実を取り上げないようにしようとする振りをすることで、事態が見えにくくなることです。

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さて、ぼくは第1波ロックダウンの直前に『「メイド・イン・イタリー」はなぜ強いのか?世界を魅了する<意味>の戦略的デザイン』という本を出し、イタリア企業の考え方をパンデミックの最中に説くしかないという、だいぶ、不利な立場にたたされました。ただ、意味づけを戦略的に上手く使っているとの内容が賞味期限切れなわけではなく、たまたま劣等生のような扱いをされた文化圏の悲哀です 笑。

実は、メイド・イン・イタリー本と装いはまったく違うのですが、芯のところでは貫通している本の翻訳の推敲をロックダウン中に手掛けていました。先月末に出たエツィオ・マンズィーニ『日々の政治 ソーシャルイノベーションをもたらすデザイン文化』です。この本は、人々が(歌を誰もが歌い合唱ができるように)誰もがもっているデザイン潜在能力を日常生活で発揮することで、自分の住んでいるところ、あるいは自分がつながっている1万キロ先に住む人々のコミュニティ(=ハイパーローカルという言葉を使っています)のロジックを変えていく可能性を示唆しています。

言ってみれば、マンズィーニがソーシャルイノベーション領域における創造性について語り、手前味噌ながら、ぼくはイタリアの企業活動における創造性、特にセンスメイキングにおける力の発揮が世界で存在感を示す結果になっていると書いたわけです。

そして、日常生活で直面する状況に対する解釈の幅を広げ、そこから多数の選択肢を導きだしサバイバルするのが大切だとの議論が、まったく偶然ながらも、井庭さんの冒頭の本の主題でもあったのです。

彼の本では、殊に自分の生活空間や家族に触れ、傍から見れば苦境かもしれないところに、生活の主人公はどう深い意味をもたらせていくと良いかを丁寧に記しています。もちろん、書名の通り、サバイバルのためのある種の手引きにも読めます。が、自分がより主導権をもつ行動ができるか?に視線を注ぐと、なぜ、日常生活において創造性を発揮すると良いのかが分かってきます。

井庭さんもマンズィーニも、関係価値、つまりは人と何かをやって嬉しいと思える瞬間に貪欲なのです。「自分の住むコミュニティだから」、「自分の家族だから」は有無を言わせない前提条件ではなく、一人ひとりと向き合って微笑み合うシーンにしか自身の人生を実感する瞬間 ー その日々を「忘れられない思い出にする」しかないー という諦念と確信があるのだろうと思います。

写真©Ken Anzai

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