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文化は遊びの”なか”に始まるー「文化から遊び」でも「遊びから文化」ではない。

文化の読書会ノート

ホイジンガ『ホモ・ルーデンス』第2章 遊び概念の発想とその言語表現 第3章 文化創造の機能としての遊びと競技

ブルクハルトとエーレンベルグは古代ギリシャを例に「闘争から遊びへ」との見方を適用した。つまりは闘技の隆盛から堕落という道を分かりやすく描いたようにも見えるが、それに対してホイジンガはNOと言う。

「闘争から遊び」でも「遊びから闘争」でもない。「遊び的競争のなかにある文化」へ向かっているのだ。文化は遊びとして始まるのではなく、遊びから始まるのでもない。遊びのなかに始まるのだ。そう、ホイジンガは強調する。

(遊びは客観的に認識でき、具体的にはっきりと規定される事実であるが、文化はわれわれの歴史的判断が、与えられたものに対して名付けた名称だ)

いかなる文化も、闘技的機能・構造を古代期に明晰な形をとり、それは美しい形を見いだした ー 遊びで勝ち取った成功は、すぐに個人から集団へ移される。その後の生成発展で、文化の素材が複雑、いろとりどりに豊かになるにつれ、営利生活や社会生活の技術が細部までくまなく組織化される。

そして、古い文化の基盤のうえに、多くの理念、体系、観念、学説、規範、知識、風習の層が積もっていく。遊びとは関係がないが如くに。こうして文化は真面目なものになり、遊びは二次的な役割しかもたなくなるーーーしかし、そのように見えるに過ぎないのだ。事実は違う。

例えば、すべてのゲルマン語派の言語やその他の言語においても、遊びという言葉が、武器による真剣勝負を言い表す時に必ず使われていた。古代英語の詩では、「闘争の遊び」「戦いの遊び」、時に「槍の遊び」との表現がある。

また、古代ギリシャの貴族生活の形成過程のなかで、初期において「徳(アレテ―)」は純倫理的な響きをもっていなかった。ポリス社会のなかの市民の仕事への適用能力を指していた。

文化的な発展のなかで、徳は、倫理的、宗教的な、より高いものへと昇華されていった。勇敢に振る舞い、己の名誉を外に表すことで十分だった貴族が、徳をみたすために生き方を変えなければいけなくなる。倫理的な要素を取り入れるか、華やいだ見せかけの世界に充足するか、どちらかを選択する岐路に立たされたのである。

ここにおける名誉を求める意思も遊びの形式のひとつなのである。「自慢競争」「悪口比べ」も、この範囲にある。あるいは物質的な価値への無関心を装う、永遠の自己聖化も同様である。

そもそも、遊びという概念そのものが、(遊びと対比されやすい)真面目よりも上の序列に位置しており、真面目は遊びを締め出そうとするが、遊びは真面目をも内包するのだ。

<わかったこと>

中公文庫の本書の最後に堀米庸三とマリウス・B・ジャンセンの対談が掲載されている。1969年のものだ。

このなかで堀米は、ホイジンガの「中世の秋」は1935年前後に日本で読まれていたが、そう熱心な読者はードイツ語版を途中までしか読まなかったー自分も含め少なかったと思い起こしている。

その彼が1958年に北米に留学した当時、米国では普通のサラリーマンもホイジンガの本を読むほどに人気があるのを知り、英語版を買って読み始めたのがホイジンガ経験の最初だったとある。

本書の序説を読む前に、(解説は読まなかったが)この対談を読んで、どうして日本のなかでホイジンガの人気がなかったのだろうーーと思っていた。

本書の2-3章を読んで、そういうことかあ、と思い至った。

制度化された西洋文化を「生真面目に」受容していた日本の人にとって、ホイジンガの書く内容は「大人過ぎた」のだったのだろう、と。あるいは、ホイジンガの語る内容に入り込むのは、身を崩すような怖さがあったのではないか、とも。

冒頭の写真は、今回もミラノ・トリエンナーレ美術館で開催されているアレッサンドロ・メンディーニ回顧展の一角だ。ホイジンガの遊び論からメンディーニの遊び論を分析するのも楽しいかもしれない。


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