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西洋紋章デザイナーになった人の話。

2008/8/7

紋章デザイナーである山下さんはとても楽しい人です。神父の服を着ていますが、「たまたま着ている」とでも言いましょうか・・・それは神父のあるべき姿として非常に好感がもてます。その彼から聞いた今に至るストーリーをかいつまんでご紹介します。

山下さんが神父になろうと思ったのは中学の時ですが、その頃、西洋紋章の本を学校でみつけ、その美しさに心を強く動かされました。高校生になり、バチカン市国内のサン・カルロ宮殿に住んでいた教皇宮廷庁長官を40年以上も勤めたジャック・マルタン枢機卿(il Cardinale Jacques Martin)に手紙を書きました。フランス語です。学校でフランス語を勉強していたのではなく、枢機卿がフランス人なので、フランス語の手紙を書いた方が有利だと判断したのです。返事がすぐ来ました。「早々にバチカンに私に会いに来るように」と。1991年クリスマスのことです。

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枢機卿はサンピエトロ広場でベレー帽を被って待っていました。上の写真の方です。「私の死期は近い。だから、君に教えられることは教えておく」と言われ、山下さんはバチカン滞在中の1週間に、基礎的なことがらや人脈を教えられたそうです。そしてその枢機卿は翌年秋に逝去します。病気でした。一方、山下さんは東京の上智大学に入り、国際法を勉強します。もちろん、その間も、西洋紋章への思いは絶えることがありません。

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マルタン枢機卿にも名前を聞いていたスイスの大司教に手紙を書きます。西洋紋章での権威で、亡くなるまでケンブリッジ大学紋章系図学会総裁やスペイン・ブルボン王家付高位聖職者も勤めた、前駐イギリス教皇庁大使のブルーノ・ハイム大司教(l’arcivescovo Monsignor Bruno B. Heim)です。歴代のローマ教皇やハプスブルグ家・ブルボン家などの紋章を手がけてきた大司教です。その大司教が山下さんの手紙を読んで、「すぐ来るように」と返事をしたのです。卒業後、大司教88歳のとき、山下さんは初めての弟子となります。上の写真は大司教と山下さんです。そして、修行がはじまります。

2008/8/8

ハイム大司教は山下さんを連れてハプスブルグ家やブルボン家など、歴史の教科書に出てくる欧州の名門貴族を紹介していきます。一度、山下さんは大司教に「どうして、私を弟子にしてくれたのですか?」と尋ねると、「神の思し召しだ」と答えてくれたといいますが、山下さんが大司教自身の人脈を有効活用するはずであると見込んだのでしょう。山下さん自身、神父になろうと決意はしていましたが、名門貴族のみならず名門企業のトップとも面識を得、心が揺らがないわけではありません。これをビジネスに使ったら・・・とも思います。(下の写真は、ケンブリッジ大学紋章学会創立40周年の晩餐会です。山下さんはハイム大司教の隣です)

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しかし、彼は自分の役目は「大きな富を貧しい層に動かしていくこと」と任じ、だからこそ大司教は山下さんに多くを与えたのだと考えます。 約3年、ハイム大司教のもとで学んだ後、彼はローマのグレゴリン大学で修士をとり、マルタ騎士団の団員になります。スペイン広場に近いコンドッティ通りにマルタ騎士団の本部がありますが、ここは治外法権になっています。即ち、マルタ騎士団は外交権をもっており、113カ国と国交を結んでいるのです。そこで山下さんはマルタ騎士団のパスポートも持つに至ります。

さてデザイナーとしての活動ですが、ハプスブルグ家の当主からの紋章デザインの依頼がありました。西洋紋章は日本の家紋と異なり、個人のものです。そして結婚や死に際し、モディファイが加われていきます。山下さんはハプスブルグ家当主にデザインを提出するとき、同じ作品を二枚用意しました。その一枚に当主にサインを願います。これが彼の重要な営業ツールになります。欧州の他王侯貴族も、この信用を買います。スペイン公爵からは対価として勲章をもらいます。

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山下さんはトリノの出版社から紋章の書籍を出す際、若干資金に不足しました。そこで七宝焼きの印 をローマの質屋に入れる羽目になりました。しかし、勲章は証書が重要で、神父がそういう勲章をつけてどこに行くでもないので仕方がないと諦めたようです。実際、勲章のコレクターがおり、それなりの金額で売買されているのが実態だそうです。それでは、その彼が、今、どうして東京にいるのでしょうか。

2008/8/11

山下さんは昨年10月、日本に派遣されました。マルタ騎士団が日本で何をすべきかを考えるのが彼の任務です。マルタ騎士団は他の国では病院などを経営しています。そして団員は弁護士などの職業をもっていることが多く、彼は紋章デザイナーというわけです。欧州クライアントのために、一年に数十枚の紋章デザインを描く一方、日本の化粧品メーカーのパッケージデザインをするなど普通のグラフィックデザイナーと同じ仕事もこなします。そして、カトリック中央協議会の広報担当でもあります。もちろん神父ですからミサもあげます。

「なかなか日本は難しいですね」 と語ります。彼がイタリアに滞在していたときは、ローマ教皇を何人も出しているイタリアの名門貴族がスポンサーでした。そのスポンサーはふんだんな資金をくれるわけではなく、信用と山下さんが最低限生きていくための糧を与えてくれたようです。およそ欧州の貴族の考え方として、スポンサーをするにしても、若いうちに一気呵成に成功させようということはなく、成熟した年齢でじわりと世の中に出てくることを良しとします。時間をかけて丁寧に育てていく、そういう文化があります。日本に戻った山下さんは、何でも回転の早い日本のリズムと上手くかみあわないのでしょう。

リズムが早いことは、ビジネス的観点からすると、それだけでは悪いことになりません。しかし別の問題があります。ぼく自身、今回の東京滞在で強く思ったことがあります。 あらゆる営み、それは政治的なレベルから全ての経済的行為のすべてですが、何かを考えるときに、「これを行うことによって、生活する普通の人たちの心のキャパシティをオーバーしないだろうか?」という問いかけを責任ある人たちが当たり前のように行っているだろうか・・・ということを思いました。

苦しい心を抱えた若い人たちが多く存在し、彼らと同様、親たちも心の余裕を失っています。厳し過ぎる経済活動のしわ寄せが家庭に押し寄せていると指摘する人もいます。 ぼくは、同じことを工業製品の開発や品質でみます。余裕のない仕事の仕方が、いろいろなところで足を引っ張っています。こういう状況を変えていかないと、世界における日本製品の存在感は低下する一方だろうとも思います。

話がわき道にそれましたが、実は山下さんと話していて、こういう話題に彼が実によく頷いてくれたのです。この人々の心のキャパをどうみるか、このあたりに山下さんの目線があるのかなという気がしました。

2008/8/12

西洋紋章は金(黄色)、銀(白)、赤、青、緑、黒、紫程度しか色が使えません。しかも、金と銀は隣り合ってはいけません。「制約の中の芸術」である以上様々なルールがあります。それにしたがってデザイナーは描いていくわけです。この西洋紋章を描く人間は2-30人しかいません。山下さんは唯一の東洋人です。西洋人からの妬みもあります。欧州のとある掲示板には、「どうして山下さんが、我々の伝統ある西洋紋章をやっているのだ」ということも書かれます。

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山下さんは、こう答えます。「あなた方が後継者を育てていかなかったのが、原因でしょう」と。それはそうです。相撲の世界に外国人が多くいるように、日本の伝統工芸の世界で働いている外国人の職人もいます。 家紋を作る世界に外国人がいるかどうか知りませんが、同じように門戸を開ける、いつも受け入れる心の備えが大事でしょう。山下さんは、欧州の伝統の真っ只中でクリエイターをしているからこそ、その綻びと何を残さないといけないかが見えてきているのではないか・・・とぼくは想像します。

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前述したように、化粧品のパッケージのように、普通のグラフィックデザイナーと同じ仕事もしますが、彼は日本の伝統工芸品と西洋紋章の融合にも興味をもっています。 とても面白いと思います。二つの伝統が真っ向から向き会った時に、何を譲歩するかは極めて重要な判断です。日本庭園のデザインでも、日本庭園は日本でしか実現できないと主張してやまない人がいる一方、あるエレメントをキープできれば日本庭園のエッセンスが世界のどこでも表現できると考える人もいます。

料理の世界では、長い間にわたって異文化交流を潜り抜けてきました。フランス料理のヌーヴェル・キュイジーヌでは、イタリア料理や日本料理も重要な異文化提供者の役割を演じています。いずれにせよ、どんな分野でも、ひとつの文化で静的に閉じた状態であるということはありえないのです。山下さんは、これからどんな世界を、どんな文化を作っていってくれるのでしょうか。非常に楽しみです。

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